14/07/2014
どうも、はじめまして。gotamagで主にアートの記事を担当します、マチドリです。
美術展に行って考えたこと、他にも映画やクラシック音楽など、わりと幅広い分野に関連する記事を書こうと思います。
当初は「エロ」分野について書いてほしいと言われていたので、ほどよくエロを意識しながら書きたいと思いますが、まずはコチラをご覧ください。
(出典: バルテュス展ホームページ「展覧会紹介」より)
ご存知、ピカソをして「20世紀最後の巨匠」と言わしめたフランス人画家・バルテュスの作品、『夢見るテレーズ』です。6月22日まで東京都美術館でやっていたバルテュス展で実物を見た方も多いかと思います。僕も見てきました。
・・・エロい。エロすぎる。
ポスターで見たときから気になっていましたけど、やっぱり美術展で見るとエロさが際立ちます。少女をここまでエロく描くことができるというだけで僕は(ある意味)感心しますし、やはりバルテュスはロリコンと呼ばれてもまあ仕方ないなあ、と思いました。
ところで、このエロさはどこからくるのでしょうか。何がそんなにエロいんでしょう。
美術展に行くと、普段あまり考えないようなことを考えてみたくなるんです。さしあたりエロさを「性的興奮をかきたてるもの」として、考えてみようと思います。
大胆に開かれた両足、露わになっている下着、眠りながらも険しさの漂う少女の微妙な表情。そしてそれらを包み込む部屋のしっとりした雰囲気と陰影。見れば分かりますが、この露骨なイカガワシサはかなりエロいです。
でもそれだけでは、このモデルが少女である必要はないですよね。
というか、そもそも僕は少女にエロさを感じる性質ではありません。少女が性について無自覚な存在、あるいはその象徴だと思うからです。
バルテュス展の作品紹介がこの絵を「無垢から性の目覚めへの過渡期を表わしたとも言える作品」と解説しているように、テレーズは(「大人の女性」に向かいつつあるものの、)まだ性に目覚めてはいません。眠っているというのもあるけれど、警戒心が無くあけっぴろげですよね。
僕はむしろ、性について自覚した人がそれを恥じらったり受け入れたり求めたり、そういう恥と欲望の間を揺れる微妙な戸惑いにこそエロさの本質があると思っています。それは見る人・見られる人の双方向的な営みなのです。
だから、一方的に見られる対象になる純潔な「少女」の性に、僕はエロさを感じない・・・はずなのに、バルテュスの絵はすごくエロいと思ってしまう。
おそらく、この絵と対面した時に、「見る」というよりも「覗く」という感覚があるからだと思うのです。
白状すれば、パッと絵を見ると、僕の視線はどうしても少女の股間に吸い込まれます。ほぼ中心にそれが描かれているし、片膝を立てたその隙間から「覗く」ように見えますから。
少女のものとはいえ、性的な何かを覗きこむとき、罪悪感に似た、ある意味でスリリングな感覚があります。それが見る者の興奮につながっているのかもしれません。そしてひとたび見る者がエロさを感じると、少女の純潔さは、かえってその背徳的なエロさを際立たせてしまっています。
ともあれ、少女と性を一枚の絵のなかに描くには、その社会的な反響を考慮するなら、かなり勇気がいるはず。だけどバルテュスは臆せず描いています。ということは、この絵の持つスキャンダラスなエロさは、「性」自体を描くためというより、あくまでバルテュスが描きたかった大きな何かのための素材のひとつにすぎない、という気がします。
だとすれば、このエロさはバルテュスの画家としての追求から生じるものでもあります。
この絵を見てエロさを感じたあなた。
賛否はともあれ、あなたはすでにバルテュスの世界に呑みこまれていますよ!
(ライター:マチドリ)
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