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鷲田清一『だれのための仕事』を読んで卒業まで3カ月の過ごし方を考えた

03/01/2015

 

 

いよいよ2015年。

今春から新社会人になるという人には、残りの学生生活3ヶ月をどう過ごそうかと悩んでいる人も少なくないだろう。

しばしば問題になるのは「学生にしかできないこととは何か?」ということだ。

これはなかなか難しい問題だ。働き始めた後にそれが本当に「できない」のかどうか分からないからだ。大人のひとたちはアレをしておけコレをしておけと色々アドバイスをくれるけれど、それは必ずしも今自分が「やりたいこと」とは一致しないし、というか要するにそれって「学生のうちにやっておくべきこと」じゃない?それじゃあもう働いているみたいなものじゃないか!やっぱり「やりたいこと」より「やるべきこと」を優先するべき?せっかくの学生最後の時間なのに。ああどうすれば良いのだ…。

 

と、そんな悩める学生(筆者含む)のために、今回は残りの学生生活をどう(いう気持ちで)過ごしたらいいのか、ということを考えてみたい。

 

ところで、残りの学生生活のことを考えるためには、社会人生活のことを考慮せざるをえない。そこで本記事では2011年に刊行された哲学者・鷲田清一氏の著書『だれのための仕事―労働vs余暇を超えて』(講談社学術文庫)を参考にしたい。

 

 

鷲田清一『だれのための仕事』

 

早速だが、本書の概要をまとめておこう。

 

「前のめり」のわたしたちについて

 

わたしたちは普段、人生というものを一本のラインのようにイメージしがちである。ある年齢に達すると学業をはじめ、就職し、退職して、と、人生があまりにも単純に区切られてしまっている。そこでは目的が未来に設定され、未来の方から「現在」の行動は逆規定されてしまうのだ(p.113)。老後のために貯金する、そのために定職に就く、そのために大学に入る、そのために……というように。わたしたちはつねに未来に対して前のめりだ。

他方、資本主義社会はわたしたちに「人間の活動はたえず価値を生産しなければならない、それもつねに効率的に」と要請する。これが前のめりの意識と結び付くと、「時間に無駄にすることをひとつの損失として意識させるような一種強迫的な心性が発生する」(p.36)。わたしたちは時間に空白が生じないように、何かで予定が埋まっていないと不安になるのだ。

なぜこのようなメンタリティが生まれたのだろう。それが本書の問いのひとつだ。

 

 

「労働」観の変化

 

「労働」観の変化を手掛かりに考えてみよう。
労働とはそもそも「みずからが設定した目的の実現の過程としてある」(p.44)ものであり、同時に「富の源泉」として考えられてきたものだ。しかし資本家によって生産手段が独占される過程で「みずからの目的実現」としての労働は無効化した。また「富の源泉」としての労働は、裏を返せば生きるために不可欠な「労苦」として労働があることを是認している。その結果、労働者の自由は「労働」の行為においては実現しえなくなってしまった。そこでわたしたちは自由を非労働=余暇に求めるようになる。

しかしながら、消費社会の浸透も相俟って、余暇の過ごし方自体が「楽しいことをしなくては」という義務的な意味合いを帯びてくる。そうしてわたしたちは全ての時間を有意義に使わなければいけない、というメンタリティを持つようになったのだ。

 

以上の話を著者は「仕事と遊びが、労働と余暇という関係へと二極化され、労苦とそれからの解放というふうに、両者が対立物として規定され、その際が強調されることによって、皮肉にもそれぞれが空疎なものになってしまった」と整理する。

これを踏まえて筆者が提示するのが、<遊び>の重要性だ。

 

 

労働と余暇の区切りを溶かす<遊び>

 

遊びとは「遊戯」の意味のほかに、「ゆるんだ空間」としての意味がある(例えばブレーキの「遊び」という場合が後者に該当する)。遊戯は「緊張と弛緩という身体感覚の振幅」が不可欠な行為であり、裏を返せばそれは「緊張しすぎてもいないし弛緩しすぎてもいない」(p.108)身体状態をつくりだす。すなわち、遊戯とはゆるんだ空間としての<遊び>を身体に取り入れるものである。目的合理的で機械的な近代的労働の行為とは異なり、<遊び>のある行為は様々な偶然性にさらされるため、ときに予定されない事態の発生によって存在やアイデンティティそのものが揺るがされる可能性がある。やや抽象的だが、存在自体を揺るがすような体験にこそ、ぞくっとする快感がある。その快感が、遊びがもたらすものなのだと鷲田氏は指摘する。

 

仕事と遊びとは本来、内容的に区別されないし、時間的にも分離しない。それらを区別・分離して仕事/遊びを労働/余暇に置き換えて「この時期までにこの目的を達成する」とパック旅行的に目的を設定してしまうのではなく、偶然性に身をさらしたプロセスで「つねに別の場所への移行状態にある」という感覚でいること。そのことが、(仕事/遊びの違いにかかわらず)わたしたちの行為ひとつひとつに意味を与えるだろう。

 

 

以上のような本書の議論は、必ずしも目新しい内容ではないだろうし、やや抽象的すぎるきらいがあったように思われるが、本記事には示唆に富む内容である。

 

 

学生の最後の3カ月についてのメンタリティ

 

さて、本書の内容を踏まえると、冒頭の問いも全く別の見方ができるのではないだろうか。というと、もう本記事のオチも見えてしまったかも。

 

「学生でなければできないことは何か」という考え方は、むろん学生と社会人に明確に線を引いているし、ある程度の不可逆性を内包している。

実際、社会人になったら責任を持たされるし、時間もないし、結婚とかもあるし、まとまった時間を自由に使えるのはやっぱり学生のうちだ。だから「学生でなければ」ということになる。この考え方は多くのコンセンサスを得ているだろうし、現実的なものに思われる。

鷲田氏の指摘に従えば、これは「前のめり」の意識であり、残りの学生生活3ヶ月を「労働」に対照する「余暇」として位置付ける考え方だといえるだろう。
たしかに、実際に物理的に長期休暇でないとできないことはやっぱりある。

しかしそれは多くの場合、「学生でなければ」というより「長期休暇でなければ」という話だ。今後チャンスが皆無というわけではないだろう(たぶん)。

「学生でなければ」を考えてしまうメンタリティは、就職前と就職後を切断して目的論的な(学生として価値ある)行動を促すものだ。それではやっぱり<遊び>が足らないだろうし、今後「仕事が労働でしかなくなってしまう」というメンタリティ形成につながりかねない。

 

本書の内容からも明らかなように、「いかに働くか」、「学生生活をどう過ごすか」、それはこころひとつだ。だからあまり具体的な話にならなくて恐縮なのだが、そのうえであと3カ月をどういう気持ちで過ごせばいいのかと言えば、差し当たり「学生だから」とかいう考えを捨ててみるのが良いのではなかろうか。
「残りの時間」という区切りに縛られず、何をするにしても就職後に連続していけるようなスタンスで取り組んでみる。そうすれば時間の制限に焦ることなく余裕を持って取り組めるだろう。

 

そしてきっと、就職を前に「働きたくない」的な虚脱感を抱くなんてことも無い…はず…。

 

 

 

(ライター:マチドリ)
アイキャッチ画像出典:amazonページより

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