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ボーイズラブ的視点から見る「百合」の世界

02/12/2014

 

 一体、批評界で何が起きているのか。

 

『美術手帖』12月号が「ボーイズラブ」を特集したと思ったら、
今度は『ユリイカ』12月号で「百合」特集である。
すごい一体感を感じる…。今までにない、何か熱い一体感を…。
そんなコピペを彷彿とさせる今回のビッグウェーブに、
BL・百合ファンの端くれとして、乗らないわけにはいかない。

 

とはいえ、筆者は腐女子歴こそそれなりに長いものの、
「百合も良いよね…!」と思えるようになったのは
つい最近のことだったりする(具体的には『魔法少女まどか☆マギカ』以降)
そのため、百合作品の「金字塔」と呼ばれる
『少女革命ウテナ』や『マリア様がみてる』もよく知らないし、
百合についてあれこれ思いを馳せたこともない。

 

一方、これはあくまでも体感的なものだが、最近は筆者のような
「ライトな百合ファン」がどんどん増えている印象がある。
その背景として、昨今のアニメ・マンガ作品における「百合的」表現の流行や、
百合に先行する形でファンを増やしていったボーイズラブとの関係は
無視できないだろう。

 

前置きが長くなったが、今回は「腐女子の端くれ」兼「ライトな百合ファン」
としての視点から『ユリイカ』12月号を読み、
百合文化に対する素朴な疑問などを少しずつほどいていきたいと思う。
いま咲き誇る百合文化の一片を、少しでも感じ取っていただければ幸いである。

 

ボーイズラブ的視点から見る「百合」の世界

 正直に告白すると、筆者はあまり百合が好きではなかった。
その一方で、同じように「同性間の恋愛関係」をテーマにしたボーイズラブは
好んで読んでいたのだが、百合を描いた作品にはなかなか食指が動かなかった。
今になって思えば、それは百合をよく知らないがゆえの先入観、
つまり「食わずぎらい」みたいなものだった。

 

 それなりにボーイズラブ作品を読んだことのある人にとって、
ボーイズラブはもはや「アニメ・マンガの一ジャンル」というよりも
「作品の中に登場する要素」という感覚に近いのではないだろうか。
学園生活を描いた日常系ギャグからファンタジー世界で繰り広げられる
ハードなエロまで、ボーイズラブ作品で描かれる世界観の多様性は
「通常の」マンガとほとんど変わらない。

 

しかし、この事実を理解しているのは、ボーイズラブ作品を
ある程度読んだことがあるからだろう。

 

ボーイズラブをよく知らない、または読んだことがない人にとって、
「ボーイズラブ」と聞いたときに思い浮かぶイメージは
「薄幸な美少年同士が寄宿舎で愛を語り合う」という
少々前時代的なものかもしれないし、
「やらないか」「すごく…大きいです」といった
「ネタ」的なものかもしれない。

 

もちろん、これらのイメージが「貧困だ」とか「悪い」という
話をしているわけではない。
だが、当該分野に対する情報量が圧倒的に少ないのは事実である。
そのことを自覚しないまま、先入観だけで「なんだかつまらなそうだ」
「私には合わないな」とバッサリ切り捨ててしまうのは、
実にもったいないことだと思う。

 

しかし筆者にとって、百合はまさにこのパターンだったのだ。
「美しい“お姉さま”に想いを馳せる少女の淡い恋物語」の域を出ない、
とても狭くて特殊な世界が描かれた作品。
そんな先入観から百合全般を敬遠し、結果的に食わずぎらいをしていた。
実にもったいないことをしていたと思う。本当に。

 

私の百合遍歴を振り返るのはまた機会にして、
ここで改めて「百合」の定義を見てみよう。

 

百合とは、女性間の激しい感情的結びつきや恋愛感情、
もしくは肉体の欲望を表現するすべてのアニメやマンガ
(または他の派生的メディア、例えばファンフィクションや映像など)
を指すと言える。
百合はそれを見たり読んだりする人々の性別や年齢によって
限定されるものではなく、その人々の“認識”により規定されるジャンルである。
つまり、レズビアンのテーマを持ついかなる物語も百合なのだ。
        —エリカ・フリードマン、椎名ゆかり・訳
         『ユリイカ』12月号「百合 境界なきジャンル」pp.143〜154より

 

百合とは、人々の“認識”によって規定されるジャンルである。
ある作品を見た人が、その中に「百合的/レズビアン的」な表現を見出せば、
それはもう百合なのだ。
ボーイズラブと同じように、百合は「とても狭くて特殊な世界」の中で
完結するものではない。
むしろ既存のジャンルを越境して存在する一種の「概念」のようなものとして、
百合(そしてボーイズラブ)はあらゆる作品の中のどこにでも存在するし、
見出すことができるだろう。

 

作品へのリスペクトを欠くような妄想の暴走はいただけないが、
与えられた世界の中で少しだけ自由になれる「解放区」として
ある程度の節度を持って百合・BLを嗜むことは、
決して悪いことではないはずだ。

 

解放区としての百合・BL

中里一さんは、「解放区としての百合」(本誌pp.66〜77)の中で
「人間は〈格付け〉〈棲み分け〉〈共生〉のゲームのなかで
一生を過ごす運命にある」と述べている。
物事に何かしらの定義を与え、カテゴライズすることでそれを
「理解」しようとする/したつもりになるのは、人間が自然に行なう
処世術のようなものだろう。

 

その〈格付け〉〈棲み分け〉〈共生〉のゲームからの浸食を受けない
「解放区」を築き、そこで恋愛フィクションを読む・書くという
遊びに興じるーーそれがBLと百合の戦略である、と中里さんはいう。

 

前回、『美術手帖』のボーイズラブ特集に関する記事の中で
「どうして男性同士の恋愛に『萌える』のか」という問いを立てた。
十人十色の回答がある中で、そこでは“関係性”という視点からの
考察を試みた。
いってみれば、今回は「なぜ百合に『萌える』のか」という問いに対して、
ボーイズラブとの共通点から考察を試みたことになるだろう。

 

「とても狭くて特殊な世界」に生きる我々にとっての、
「解放区」としての百合・BL。
先入観にとらわれず、ぜひ思想の自由を謳歌しよう。

 

リファレンス

『ユリイカ』(青土社)
2014年12月号 ※11月27日発売
定価1,404+税円

 

(ライター:カクノ アイキャッチ:『ユリイカ』12月号表紙 via amazon.co.jp

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