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映画は死んだのか?三浦哲哉『映画とは何か』が示す、これまでの映画の価値と、これからの映画の希望

26/12/2014

 

あなたは映画を観るとき、誰と、どこで観るだろうか?

 

映画は映画館!という人は、きっと映画好きの人に多いだろう。
なんなら、ひとりで映画館に行くことだって厭わないタイプだ。

 

DVDで出てから借りて観るのが基本、という人もいるだろう。映画館で観ると1500円から2000円くらいするけれど、DVDレンタルなら当日返却にすれば300円程度で観ることができる。それに、映画館にでむくよりも気軽に家族と一緒に観ることができる。

 

いやいや、テレビで放映されるのを待つ、という人もいるかもしれない。話題になった映画や連作映画なら、公開から1年も経てばテレビ公開もありうる。これならお金もかからない。

 

メディア機器が発達したこのご時世、スマートフォンなどでダウンロードして観る、という人も少なくない。映画館ではなく、家でもない。映画を携帯して、いつでもどこでも観ることができてしまう。

 

 

では逆に、DVDレンタルやテレビ放映、あるいはモバイル機器で映画を観る人は、どんな時に映画館に行くだろうか?
映画を観ること自体が一義的な目的になる場合よりも、恋人とデートで行ったり友人と暇つぶしに行ったり、誰かと何かをすることを一義的な目的に据え、その手段の一つとして映画館で映画を観る、という場合が多いのではないだろうか。

 

映画を誰とどこで観るか。今日では、その選択肢はかくも多様化している。

改めて、映画館で映画を観るとはどういうことか?

今年11月に刊行された、三浦哲哉・青山学院大学準教授の『映画とは何か―フランス映画思想史』(筑摩選書)は、そうした映画に関する根源的な議論をしている。

今回はそんな本書を紹介したい。映画そのものについて、改めて考えてみよう。

 

 

映画館で映画を観る、とは

 

映画を「どこで」「だれと」観るか。実はこの「どこで」と「だれと」は密接に関係していて、映画の見方はメディア機器や通信技術の進化にともない変化してきた。

映画館で「群衆」として観るものから、テレビやVHS、DVDなどを使って家庭で観るもの、さらにはPCやモバイル機器によって個人で観るものへと、映画はよりパーソナルなものになってきたのだ。言い換えれば、映画は映画館から解放され、さらに空間的・時間的な遍在からも自由になり、ついには携帯されるようにさえなった。著者はこうした今日の映画を取り巻く時代の状況を、映画が「フィルム」といったメディウム(支持体,物質的基盤)から遊離している状態として「ポストメディウム状況」と呼ぶ。

 

そこでは、映画は「動画」の一部になったとも言われているという。実際、いまや映画は自由に早送りされ巻き戻され、好きなところだけ切り取って観ることも可能だ。このように上映が観客によってコントロール可能になったことについて、英の映画監督ピーター・グリーナウェイは、「映画は死んだ」と嘆息したという。「上映時間の連続性と不可逆性という条件」が映画体験において十分条件でしかなくなってしまい、映画がひとつの作品としての表現形式を根本的に失いつつあるからであろう。

 

裏を返せば、映画館とは、観客に映画上映をコントロールさせない装置である。「様々な通信機器を恒常的に使用することが習慣化した者にとっては、一時間半ないし二時間の間、同じ映像を集中して見続けることがむずかしいということが起こる」(p.208)。PCでの視聴ならば、他のアプリケーションが同時に作動していることもあり、「こうしたマルチタスク処理こそがポストメディウム状況における観客の常態」なのだ(p.209)。だからこそ、「シングルタスクに半強制的に戻すための装置として映画館が再び必要とされる」(p.209)

また、著者は映画館内の「闇」と「沈黙」にも注目する。映画に現れるイメージは、「必要でない部分を捨象することによって、つまり影によって」可視化される(p.209)。たとえば映画作品内における「沈黙」(=影)によってこそ、作品内の音響が生きる。その際には映画作品外における「沈黙」が前提として求められるのであり、映画作品外の情報を遮断する映画館は、映画作品を観る最良の環境なのである。つまり映画館で観る場合の映画では、沈黙も表現手段のひとつになるのだ。

 

こうして考えると、映画館で映画を観るということは、その映画全体をひとつの作品として受け入れ、その幅広い表現に触れることだといえる。すると、映画を映画館で体験することの必然性が失われつつある今日、やはり映画はもう死んでしまったのだろうか。

 

それでも映画は死んでいない

 

著者はそうではないという。たしかに観客が映画館で椅子に腰かけ、持続的に観賞されることが映画にとっては理想である。

著者は、「フィルム」や「映画館」といったメディウムは確かに映画に密接に関わってはいると認めながら、しかしそれが無ければ映画が映画ではなくなる、ということではないのだという。

その理由を、著者は、映画が有する特性である「自動性」をキーワードに説明している。

「自動性」という概念について、著者はフランスの映画批評家であるアンドレ・バザンを引いている。

 

自動性には二つの局面がある。第一に、カメラが自動的に事物を記録するという場合の自動性。第二に、イメージが自動保存され、この社会の中で自律的な領域を形成する、そのような局面である。(p.201)

 

やや話が込み入ってくるが、上記ふたつの「自動性」は以下のように整理される。

第一の自動性は、すなわち「カメラという機械によって、現実そのものが人間の知性を媒介せずにある無垢な仕方で現れる」というものだ(p.200)。撮り方によっては撮影者の意図が介入しうるとはいえ、活字など他の表現形式に比べても、映像は現実そのものを機械的・自動的にありのまま映すものである。

第二の自動性は、映画が作り出すイメージが、事後的・自動的に制作者の主観性や意識から自律するというものだ。どういうことか。著者はこれについて、バザンの議論からチャップリンを孫引きして説明する。たとえば映画『独裁者』において、チャップリンは貧しいユダヤ人理髪師と、ヒトラーをモデルにしたヒルケンの二役を一人で演じている。両役のすり替えを通じてチャップリンは「独裁者ヒトラーを笑いものにし、その存在の理不尽を白日のもとに晒した」(p.87)。独裁者ヒトラーが従来もっていたイメージを奪い取り、それを「空虚な偶像」たらしめたのである。

イメージが現実から発するものであっても、それは映画によって自動保存され、現実から自律して併存し、現実に逆流して影響を及ぼし得るものでもあるのだ。

 

 

映画のカメラは、私たちの主観から独立した事物の自動的な運動を捉える。そうした事物の自動運動は、それぞれが自律的であるからこそ「全体性を欠き、断片的で、一つの意味に繋ぎとめられていない」(p.203)。他方、一つの意味に繋ぎとめられていないからこそ、自動運動とそのイメージは常に外部から別の価値を宿す可能性があるという。たとえばチャップリンの『独裁者』がもつイメージは、映画として保存されて時間を経るうちに、今日にいたって当時とは別の価値を持ち、新たな問題提起をする可能性があるということだろう。「それは私たちが自明視している認識の諸前提にラディカルな動揺を与えることができる」(p.203)。映画の「自動性」は新たな思考の端緒となりうるものなのだ。

 

そして映画の自動性はメディウムの状況と関係こそすれ、それによって決定的な死はもたらされない。「デジタルデータ上であれ、自動運動を再開させればよい」(p.219)。それが著者の結論だ。

 

 

いち観客として、いち読者として

 

さて最後に、ごく私的な内容で恐縮だが、本書の感想を記しておきたい。

本書に書かれた映画館という場所のもつ特性や映画それ自体の可能性は、いち観客である筆者にとっても納得のいくものだった。

筆者は映画館で映画を観るが、本書でも論じられているように、それは情報が遮断されることで映画作品に集中・没入できるからであり、そのなかではよく思考が働き、ときに思いもよらぬ発見があるからである。そこに映画を観るひとつの価値を感じる。

実際にこれまでにもgotamagでいくつか映画の記事を書いてきたが、そこではレビューというよりも「映画を観て考えたこと」を好き勝手に書き綴ってきた。そのなかにはもしかしたら、制作者に意図から離れた、まさに映画の自動性との出会いから得られた思考があったかもしれないとも思えた(記事内容の出来はさておき…)。

 

制作者の意図をくみ取ることばかりが映画観賞の成功ではないだろう。

映画の自動性と、観客たる私たちの思考が、予定調和ぬきに出会うということ。これもまた、映画を観ることの魅力のひとつだ。そして観客からすれば映画館とは、そうした魅力を感じやすい場所ということだろう。

 

他方、読んでいると、本書は映画のあり方について保守的な雰囲気をかもしながらも、ポストメディウムの時代を必ずしも悲観しているのではないことが分かる。むしろポストメディウム時代にも生きる映画の普遍的な価値や魅力を提示しているからこそ、本書はこれからの映画論に向けても積極的で大きな意義をもつのではないだろうか。今後のメディウムの変化を映画がどう受容していくのか、それは映画を愛する人にとっての楽しみにもなるかもしれない。

 

 

いち観客として、広告などからは示唆されることのない出会いを次に観る映画に期待したくなる。
いち読者として、これからの映画に希望を抱く。
そんな一冊である。

 

 

 

(ライター:マチドリ)

アイキャッチ画像:本書amazonページより

 

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