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『身体を売ったらサヨウナラ』を読んで語りたくなった、文化系非モテ男子のシアワセ論

05/12/2014

 

鈴木涼美・著『身体を売ったらサヨウナラ―夜のオネエサンの愛と幸福論』(幻冬舎)

『「AV女優」の社会学』で話題になった著者の新刊で、11月26日に刊行された。

 

社会学者で、新聞記者の経歴ももつ著者が、恋と幸福をテーマに「夜のオネエサン」だった時のことを赤裸々に綴る本書。既に読んだ方は、きっと読みながら自分の恋愛経験を思い出したのではないだろうか。これだけ赤裸々に自身の経験が語られる素直な文章に、読んでいる方も振り返らずにはいられないはずだ。
さて今回は、本書を読んで「愛と幸福」について考えたい。とことん「自分語り」の内容になってしまって恐縮なのだが、本書に触発されまくったので、ぜひ語らせてほしい。

 

本書は、「親」や「大人」から教えられる幸福のあり方に対する疑問からはじまる。そこで著者のスタンスは明快だ。

そもそもワタシのような若輩者が容易に想像するような、「愛し愛され」の「愛」はどうしても必要なのだろうか、とも思う。愛し愛され幸福になる必要なんてあるのだろうか。愛は無くとも刺激があって、好きはあって、楽しいも存在する。そういう1日をやり過ごして、またそれを繰り返していくことで、人生をまっとうすることは許されないのだろうか。

(本書p.6)

 

「大人」や「親」から教えられる「ひとりの人と愛し愛されるのが幸福」という規範的で”正しい”価値観と、「夜のオネエサン」として経験的につくられた「愛よりも刺激」の”間違った”価値観。それら価値観の両義性は「葛藤」というほど観念的にではなく、より物質的に「分裂」として表現される。実際にその両義性は、「こころ」だけにではなく昼と夜で使い分けられた「顔」にこそ現れて、「ワタシ」を分裂させる。
いろんな顔を持って、多様な感覚と欲望があって、正しいからって規範的な価値観に従順になれない・なりたくない『微妙さ』と『複雑さ』を抱える。それが夜のオネエサンである「ワタシ」なのだ。

本書では、「夜のオネエサン」としての経験、共にすごした仲間や元彼氏たち、母親や父親とのエピソードを振り返りながら、幸福論、オトコのこと、下着から性器のことまで、幅広く語られている。

 

幸福について考えていて「自分が良いならそれで良いじゃん」と言ってしまうのは簡単だが、結論としては味気なくてつまらない。どうせ考えてみても結論などでないのだけど、でもやっぱり本書を読むと考えさせられる。シアワセって何だっけ?

…というと、細木数子の顔が浮かぶけれど(古いか…)。

 

 

恋愛観のはなし

 

さて当方、「夜のオネエサン」とは全く関わったことのない24歳男性である。

僕は本書で言う「ショボいオトコ」がおそらくほとんどそのままあてはまる類の人間だ。つまり「オトコ」として何か刺激的なステータスを持っているわけじゃないし、僕の学歴とかのステータスを説明するにはきっとどれに関しても「それなりに」が付くはずだ(良くも悪くも)。そういうわけだから、恋愛観も非常に地味なのだが、とりあえずまあ暇つぶしにでも僕の恋愛論をきいてほしい。

 

僕は中学・高校と男子校に通い、大学ではオーケストラでクラシック音楽に漬かる、そういう10代から20代前半を過ごしてきた。そのどの段階も一般的にいえば恋愛経験が少ない人たちの集団だったし、例にもれず僕も恋愛経験は少なかった。一般的に恋愛経験の少ない人が「恋愛なんてしなくていい」と寝言を語り始めたら、それは自分の経験の少なさを正統化しているかモテないことを僻んでいるかのどちらかで受け取られると相場で決まっている。それを承知のうえで言うが、僕も恋愛に対してそれほど熱心でない(と自分では思っている)人間の一人だ。刺激が欲しいとか退屈したくないとか、そういうことを思うことはもちろんあるけれど重要なことではなくて、およそ「刺激」とか「変化」とは全く逆の、「変わらないことの安心感」のようなものがあれば恋愛は事足りるという気がしている。本書で「オトコはギャンブルの不確実性を楽しんで、恋愛に確かさを求める。女は買い物の確実性を楽しんで、恋愛にギャンブル性を求める」(p.81)という話があったけれど、これときっと通底するものがあるのだろう。実際に僕は別れるのも億劫になってだらけているうちに唐突にフラれてめちゃくちゃショックを受けるというタイプのどうしようもない人間だ。

 

ついでなのでセックス観の話もしよう。僕はこれまで「文化系非モテ男子」特有かもしれない「マジメ」さを、その行為において体現してきた(付き合ってない人とはしない、避妊は必ずする、とかを徹底するという程度のことだが)。その「マジメ」さは(人から言われるときの語感のかぎり)決していい意味ではなく、むしろ異端視されている気さえして、その意味では、反転して「夜のオネエサン」たる著者と通じているかもしれない。

“異端”のセックス観、それは例えばこんなふうに形成される。ある日のテレビで元女子プロレスラーでタレントの北斗晶が「これまでの人生で経験した最も痛かったことランキング」なるものを発表していた。そのランキングで、「膝(だか肘だか)の皮がズル剥けて骨が出た」というような、聞くだけで首元のあたりがゾワゾワするおぞましい経験をおさえて2位にランクインしたのが、「出産」だった(肝心の1位は忘れた)。レスラーの「痛み」についての説得力が妊娠への具体的な想像力をそれなりに喚起してきたのだろう、そのランキングを見たときに率直に「命懸けやないかい!!」と仰天した。僕は直感的にセックスを妊娠から切り離せないくらいには頭が硬いので、そんな「命懸け」の妊娠を安易に『リスク』と捉えて「危険日」だの「安全日」だのを意識するような軽いセックスなんてとてもできぬと思った。こういう考え方はもしかしたら「男は女を守る生きもの」というマッチョな思想が潜在していると怒られるかもしれないし、「無痛分娩でおk」と論破されるかもしれないし、ただの意気地なしだとドン引きされるかもしれないのだけれど。

 

他にも折に触れてこういうことを考えさせられてきて、その結果、「マジメ」な考え方が成立しているというわけだ。この「マジメ」さは、本書で言うような「娘には溝さらいをしてでも身体を売ってほしくない健気な親たち」からすれば理想的なのかもしれないけれど、僕はやはりこの「マジメ」さは、少なくとも同世代の間では、必ずしも魅力ではないという気がする。

 

 

文化系非モテ男子の愛と幸福論

 

少し長くなってウンザリされてしまったかもしれないが、以上のようなことを総合的に考えると、恋愛観やセックス観について僕は、「夜のオネエサン」である著者とは果てと果ての対極にいると言っていいかもしれない。だから本書を読んでいて、自分とは全く別世界での出来事に驚くことは、むろん多々あった。

 

だけれど、著者と対極の恋愛観をもつ僕でも、本書を読んでいると強い共感を抱いてしまう。それは、恋愛観やセックス観とは別にある、なにか気怠さのようなもの、そして自分の感じている(と自分で思っている)シアワセの「不確かさ」に対する共感だ。

 

著者はこういう。「(親たちは)まさか私たちが、間違ってるって自分で思ってないとでも考えてるの?(略)自分の大いなる間違いと正しくなさには辟易としている。でも、果たして正しい必要なんてあるのだろうか」(p.216-217)。

 

先に長々と綴った自分の恋愛観について、僕は同世代の一般的な恋愛観との温度差をどうしても感じる。恋愛に対して僕のように寝言めいた考えを持ち続けることは、「マジメだね」「正論だね」「こういう人がいても良いと思う」と遠ざけられることがよくあるからだ。
実際、僕は「大人」や「親」の言う規範的な正しさを無批判に受け入れたわけではなかった。あらゆる恋愛を経験してきたわけでは無いのだけれど、見聞きし経験したことをあれこれ考えた挙句、とりあえず今の自分の恋愛観を持った。それが正しいのかどうか本当は分からないのだけど、結果的には規範めいているので、つまらない「正論」ということに相成る。それは自分でもよく分かっている。だからこそ、著者が自身の正しくなさに辟易とするのと同じようにして、著者とは正反対の方向からではあるのだけど、自分の「マジメ」さに対して気怠さというかアホらしさを感じることは往々にしてある。

 

どうやら同世代のひとには、「大いなる間違い」とまでは言わなくても、それなりに間違いを犯して、ある程度の正しさを保って恋愛している人が少なくないらしい。むろん僕も「大いなる間違い」に憧れをもったりだってする。だって確信犯であれ(合法の範囲内で)間違いを犯して「やっぱ間違ってました」って言う方が、間違いを知らないより説得力があるし、なんかモウケもんだし。でもやっぱり間違いを犯すこととそうでないことの間には埋められない差もあって…。そういう複雑でアンビバレントな感覚や欲望は、僕を含む「マジメ」な「文化系非モテ男子」の中にだってもちろんある。ただ「分裂」というほどでもなく、「葛藤」にすぎないのだけど。

 

実際、僕は先に書いたような「マジメ」な恋愛観を持っていながら、やっぱりもっともらしいことを語って自分で自分を説得しているだけなんじゃないのかと常々おもう。地味でも良いと思いながら、地味で良いのかと疑う。オカネを派手に使った刺激的な恋愛なんて自分はできないと呆れたり諦めたりしながら、もしたくさんオカネを持っていたらと世間的には「間違い」の退廃的な恋愛に憧れてみる。今の自分の恋愛が自分にとってシアワセなのか、それはいつまでたっても良く分からない。

 

きっとだれもが自分のシアワセの確からしさを探しながら、どうしてもそれを掴みきれなくて、だから時々「今の自分ではない自分」を考えたりしているのではないか。あの時こうしていればどうなっていたか、と。だって今の自分が目指しているものとは違うかたちでシアワセになっているように見える人はたくさんいるから。

その一方で、ふと過去の自分の生活に思いを巡らしていると、「あの時は楽しかったな」などと当時のシアワセを今さら見出したりもする。

いずれの場合でも、結局いま得ることのできない何かを探してしまうのだ。それは恋愛観の差異を問わず、漠然と自分のシアワセに不安を感じるときにきっと誰もがやってしまうことだ。こういう誰にでも類似した感覚の微妙さを表現しえているから、本書はどんな恋愛観の人にも共感を誘う。

 

それで、結局僕たちのシアワセって何なのか。やっぱり結論なんて出ないけれど、無理やりそれらしい命題を導くとすれば、つまり僕たちは確かなシアワセを『今・ここ』で感じることが困難なので、どういう恋愛をするにしても「後から考えればシアワセかもしれない」とどこかで信じてみることが大切なのかもしれないし、大切ではないのかもしれない。

 

 

おわりに

 

本書は、恋愛観に共感できなくても、きっと多くの人の内側にある微妙で複雑な思いを巧く言葉にしてくれていて、だからとても共感できるし、改めて自分のシアワセを考えさせてくれる。そしてリズムのある文体も魅力だ(今回の記事はその文体や語彙からかなり影響を受けてしまった。もちろん著者ほどうまい文章は書けないけれど)。それと表紙のご本人がめっちゃかわいい。

 

 

寒くなってきてひと肌恋しい季節、改めて愛と幸福について考えてみるのもいいのでは。

 

(ライター:マチドリ

アイキャッチ:『身体を売ったらサヨウナラ』表紙 via amazon.com.jp

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