16/10/2014
10月11日、NHK出版より宮沢章夫著『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』が刊行された。
本書はNHK・Eテレにて、今年8月から10月にかけて全10回にわたり放送された「ニッポン戦後サブカルチャー史」が書籍化されたものだ。
番組では劇作家の宮沢章夫が講師となり、戦後から現在に至るまでのサブカルチャーの変遷を、当時の時代背景とともに「愛と独断に満ちた」視点で考察している。
本書を読むとどの時代においても、その時代ごとの「空気」や「気分」といったものが文化を作り上げていることに気付かされる。
中でも印象的なのは60年代だ。
宮沢は、60年代は「怒り」に象徴される時代であったと語る。
そして、そんな「怒り」の60年代にとにかく怒っていた人物がいた。
映画監督・大島渚だ。
宮沢によると、「怒り」に象徴される60年代の時代性は、大島渚に焦点を当てることで捉えることができるという。
宮沢が語る60年代を、本書で述べられている大島渚の作品から紐解いてみよう。
大島渚は、1959年、27歳のときに『愛と希望の街』でデビューする。
『愛と希望の街』予告
当時の松竹は「大船調」という、ホームドラマで日常生活や家族愛、人情などが描かれる映画スタイルの作品を監督に撮らせており、ある意味で保守性の強い会社であったという。
しかし、1958年をピークに、映画館の入場者数は急落していく。
会社としても新時代のスターを輩出しなければならないという状況下でチャンスを与えられたのが大島渚であり、そこで彼は『愛と希望の街』を作ったのだ。
大島にとって飛躍の年となったのは、翌年の1960年であると宮沢は語る。
この年、大島は『青春残酷物語』、『太陽の墓場』、『日本の夜と霧』の3本もの作品を立て続けに撮る。
『青春残酷物語』予告
『太陽の墓場』予告
1960年は、安保闘争があった年でもある。
宮沢によれば、『青春残酷物語』と『太陽の墓場』は当時の時代の気分をくみ取って表現されており、当時の運動は直接的には描かれていない。
大島は映像作家として、権力や権威、抑圧する側に対し、映像だからこそ可能な手法での抵抗を試みたのだ。
その反面、1960年に作られた最後の作品であり、「明らかな問題作」と語られる『日本の夜と霧』では、より直接的に政治的な内容が表現されている。
『日本の夜と霧』予告
この作品には台本が最初からなかったという。
セリフは毎回黒板に書かれ、役者はすぐにその場で覚える。
当然、役者は間違えてしまうのだが、そういったハプニング性をも映画の中に取り込んでいるかのような手法が面白みを増していると宮沢は言う。
しかし、この『日本の夜と霧』は公開4日目にして打ち切られる。
先述した通り、政治的な内容を含むため、表向きは「社会党の当時の委員長、浅沼稲次郎へのテロが理由」とされていたが、真実はわからない。
これに反発した大島渚は、松竹を退社し、自身のプロダクションである「創造社」を設立するのである。
『忘れられた皇軍』
大島が自身の作品に込めたテーマの一つには太平洋戦争があったと宮沢は語っている。
日本は被爆し、そして戦争に負けた。そのことの意味は大きいのですけれども、大島は、我々は被害者であるというふうにだけ考えてはいけないと言います。我々は同時に加害者でもあるのだということです。他国を侵していったという事実も見逃してはならない、と。これはもう終生変わらなかったのではないかと思うのですよね。(p. 35)
そして、大島の怒りの矛先は、日本人の中にある被害者意識のようなセンチメンタルな心情に対してのものだったという側面があると述べている。
その怒りは、日本テレビ「ノンフィクション劇場」で1963年8月16日に放送されたドキュメンタリー『忘れられた皇軍』に顕著に表れている。
『忘れられた皇軍』は在日韓国人の傷痍軍人を描いたドキュメンタリーだ。
ラストに流れる「日本人よ、これでいいのだろうか」というナレーションは、まさに戦後、被害者意識だけを語るようになった日本人に対する怒りを体現したものに思える。
さらに大島は、弱者の側、あるいは抑圧されている者の側に立つというところがあり、その抑圧する相手に対しての怒りを常に抱えていた。
『忘れられた皇軍』では、補償を受けることのできない韓国籍の傷痍軍人たちの姿が、アップを多用してこれでもかと突きつけられる。
このドキュメンタリーは、日本テレビが今年1月12日に「NNNドキュメント’14」内にて完全ノーカットで再放送したことでも話題となった。
再放送時の衝撃を物語る記事としては、法政大学教授・水島宏明氏の記事を参照されたい。
松竹を退社後の創造社時代でも、『絞死刑』(1968年)を製作するなど、抑圧された人たちや排除された人たちに向けたまなざしを、大島渚の作品には多く確認することができる。
『絞死刑』予告編
『新宿泥棒日記』
ここまで大島の「怒り」を中心に取り上げてきたが、別の視点から当時の時代性を感じることができる作品を紹介しよう。
1969年に公開された『新宿泥棒日記』だ。
宮沢は、この映画で新宿という町が舞台に選ばれたことに着目する。
60年代カルチャーを語るには新宿カルチャーへの言及は欠かせないという。
まず指摘されたのは「風月堂」という喫茶店の存在だ。
この店では世界中のヒッピーや当時のアーティストたちが数多く集まったという。
そんな場所が新宿にあったという事実は大きな意味を持っているだろう。
他にも「アートシアター新宿文化」、「ヴィレッジ・ヴァンガード」やいくつかのジャズ喫茶の存在、また「状況劇場」の唐十郎が新宿の花園神社にテントを立てたことなどからも、60年代における新宿カルチャーの盛り上がりが垣間見える(各項目の詳細は本書『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』をぜひ参照していただきたい)。
『新宿泥棒日記』の冒頭は、新宿の紀伊國屋書店を舞台に始まる。
横尾忠則演じる主人公の青年が万引きをしているところを、横山リエ演じる書店員に捕まり、紀伊國屋書店の社長に突き出される。
この時の社長役は、紀伊國屋書店創業者である田辺茂一本人が実名で演じている。
田辺茂一は、当時の新宿の雰囲気を捕らえた『新宿タウンマップ』というタウン誌を発行していた委員会の会長でもあった。
まさに、当時の新宿の文化面を引っ張っていたというイメージの人物が起用されたのだ。
紀伊國屋書店新宿本店が、現在の建築に建て替えられたのは1964年。
本書では、当時の設計を手掛けた建築家の前川國男のインタビューを紹介し、前川の近代建築の思想と、当時の紀伊國屋書店が象徴していたものとの不思議なマッチングが、60年代の新宿を変えた大きな要素となっていることについて語られている。
この視点は面白い。気になる方はぜひ本書を手にとっていただきたい。
「怒り」の時代、60年代。
大島渚の作品は、60年代だけで17本もの作品が作られている。
テレビ番組も含めればその数はさらに増える。
大島渚は、まさに60年代という時代に怒り続けた人であった。
本書ではその後、60年代を語る上で外せない要素として、漫画『カムイ伝』が紹介されており、60年代という時代がいかに「もりだくさん」であったかがうかがい知れる内容となっている。
さらに、忘れてはいけないのが、本書は60年代のカルチャー本ではないということだ。
終戦まもない頃から現在に至るまでのサブカルチャー史がもりだくさんだ。
また本書の半分以上のページは、1945年から2014年までのサブカルチャー年表で満たされている。
これを眺めているだけでも相当に面白い。
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(ライター・倉住亮多)
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