05/01/2015
思えば僕の人生は、ONE PIECEを頑なに拒否し続けた人生だった。
なんてったって国民的漫画だ。
「おもしろいよ」「泣けるよ」と周りに薦められ続けて10余年。
そう言われるとなんだか読みたくなくなる僕は、
90年代前半生まれに付きまとうONE PIECEの影から逃げてきた。
でも、やっぱり気になる。ついこの前、ちょっと時間があるときにまとめて読んでみた。
おもしろかった。めちゃくちゃ泣いた。
いままで薦めてくれた皆様全員に謝りたい。確かに面白いですごめんなさい!
でも!!でも!!!ONE PIECEを読んでいて、思ったことがある!
それは、「登場人物の名前が覚えられない」こと、そして「飽きちゃう」ことだ!
しかしこれは、ONE PIECEという漫画が持つ強みと表裏一体の関係にある。
本記事では、なぜ僕が何度飽きて読むのをやめても再びONE PIECEを手に取ってしまうのかということを考えてみたい。
端的に言おう。まず、ONE PIECEは登場人物が多すぎる。
それはつまり、ONE PIECEの最大の特徴である「物語の過剰」を表している。
尾田栄一郎さんのWikipediaによると、彼は漫画を描くにあたり、「10のことを伝えるため100を描く」、「普通の漫画の3倍のエピソードを盛り込むのが自分のテーマ」と語っている。
作者本人も、ONE PIECEが過剰とも言えるエピソードを盛り込みまくっていることを自認しているのだ。
さらに面白いのは、「話作りの方法としては、まず、見せ場を思い浮かべて、
次に、そこを読者にとってグッとくるものにするために必要なストーリーを考える」と語っていることだ。
真っ先に浮かんだのは、チョッパーのエピソードで奇跡の桜が咲くシーンである。あれは本当に泣けた…。
おそらくあの印象的なシーンを最大限に盛り上げるため、感動的なチョッパーとDr.ヒルルクのエピソードがつくられたのだろう。
僕はこのような尾田さんの執筆方針と、登場人物の名前が覚えられないということに関係があると思う。
ONE PIECEは、個々のエピソード(「~編とされるもの」)は大変おもしろいのだが、70巻まで続いた物語全体としての連続性には若干欠ける気がするのだ。
次の島へと移動するときに前のエピソードから連続しているものといえば、仲間になったキャラクターくらいなのである。
確かに、島を移動してしまえば、仲間以外の登場人物は毎回刷新されてしまう。
しかし、これがONE PIECEの強みでもある。
大学の先輩から聞いた話なのだが、最近流行した漫画の「進撃の巨人」と「テラ・フォーマーズ」には、主要な登場人物があっさり死ぬ「登場人物使い捨てモデル」という共通点が世間に受けているらしい。
これにより、ストーリーの新陳代謝が格段に良くなるのである。
ONE PIECEは、ほとんどの人物が死なない代わりに、「エピソード使い捨てモデル」とも言うべき形式を採用している。
新しい島にいったとき、ルフィたちはいきなりよくわからない事件に「巻き込まれる」。
ここで「巻き込まれる」と書いたのは、ほとんどの場合、エピソードの主役はルフィ海賊団ではなく「そのエピソードの中心人物」だからである。
この登場人物が仲間になるならいいが、アラバスタ編や空島編など仲間にならないエピソードもごまんとある。
ルフィ海賊団が事件に巻き込まれる度に新たな「主人公」が生みだされ、ルフィたちが彼(ら)を救えばそのエピソードは終了、
「主人公」と涙のサヨナラをして本物の主人公であるルフィ海賊団は次の島へと向かう。
この急速なエピソードの新陳代謝にもかかわらず、個々のエピソードはとてつもなく重厚で、その度に登場する脇役もちゃんと背景が描かれるので「キャラ立ち」しまくっている。
そしてコマにびっしりと描きこまれた絵と台詞も特徴的だ。尾田さんは、普通アシスタントが描く街の住民ひとりひとりの表情も自分で描いているという。
このストーリーテラーとしての奇特な才能と圧倒的な情報量が、尾田さんの最高の強みだ。
だからこそ、僕はエピソードが変わるごとに新しい漫画を読んでいるようで、過去の登場人物をどうしても忘れてしまうのである。
「エピソード使い捨てモデル」は飽きずに漫画を読ませるために有効だと思われるが、実際はむしろ逆である。
ONE PIECEのクイズ番組で司会を務めていたフジテレビの山崎アナは、なぜ途中でONE PIECEを読まなくなったのか聞かれて「飽きた」と答えていた。
余談だが、局アナが、自社で放送しているアニメに「飽きた」と公然と言ってのけるのは異例ではないだろうか。
僕も飽きた。もっと正確に言うと、疲れた。
重厚なエピソードが非連続的に連なっていると、全体の物語としては非常にテンポが悪く、
正直「また始まっちゃったか…」と思い読むのをやめたくなってしまうのである。
しかし、それでも僕が何日か寝かせたのち再びONE PIECEを読んでしまうのは、尾田さんの巧みな伏線の張り方にある。
この伏線が、独立した濃密な個々のエピソードを、一本の線で結び付けているのである。
この「重厚なエピソード」と「巧みな伏線」が結実したのが、海軍と白ひげ海賊団との戦争を描いた「頂上戦争編」だろう。
マリンフォードでの両軍入り乱れた戦闘シーンは、まさに尾田さんしか描けない漫画の領域だといえよう。
まず、頂上戦争ではいままで登場したライバルやキャラクターがたくさん出てくる。
彼らは一度、尾田さんによって重厚なエピソードを背負わされた「キャラ立ち」した奴らばかりだ。
僕のように登場人物の名前は忘れてしまった読者でも、改めて登場してくれればそのキャラがどんな人物であるか、どんな人格なのかを思い出す。
そして彼らが、それぞれの思惑を抱えたまま、それぞれの敵と対峙する。このときの高揚感は、それぞれがキャラ立ちしていなければ得られないものだ。
頂上戦争で新たに登場するオーズにも、「エースに傘をもらった恩があるから命がけで助ける」というエピソードが即席で追加されるという手際の良さである。
つまり、どんなキャラにもちゃんと戦う理由が用意されているのだ。
また、戦争を「海賊団 対 海軍」ではなく「個 対 個」という描き方ができるのは、尾田さんの画力に依るところが大きい。
キャラクターの戦場での位置関係や目まぐるしく移り変わる戦況を、俯瞰と寄りのシーンを効果的に使って矛盾なく描き切っている。
そして、この頂上戦争編で、ルフィとエースの出生や名前に隠された秘密というONE PIECEの物語の根幹部分に関わる「伏線」が次々に明かされていく。
そのとき、思い思いに散らばり戦っていた海賊たちが、はじめて「ルフィをエースのもとに送り届ける」という目的のもとに一致団結するのである。
この戦争シーンにおける「膨張」と「収縮」のダイナミズムは、ONE PIECEという作品におけるひとつの到達点だったといえよう。
尾田栄一郎は巧みに張りめぐらせた伏線で、いままで積み重ねてきた「過剰」なエピソード(あるいはキャラクター)たちを、ルフィからエースへと続く一本道という舞台に纏めあげたのである。
きっと僕はこれからもONE PIECEに飽きてしまうだろう。
突然出てくる名前が誰を指しているのかわからなくてググることもあるだろう。
それでも僕は、連載開始当初から尾田さんの頭にあるというラストシーンに向けてページを繰るのをやめられないと思う。
なぜなら、尾田栄一郎という「伏線の魔術師」、あるいは「描きすぎな男」は、
いままでのエピソードすべてが綺麗に繋がった最高のエンディングで僕たちを楽しませてくれるに違いないと確信しているからだ。
そのとき、ONE PIECEという漫画は、読者にとってまさに「ひとつなぎの大秘宝」になるのである。
それまで、僕も大船に乗ったつもりで読み続けることにしよう。海賊だけにね!
(ライター:加川 アイキャッチ:ONE PIECE単行本1巻 表紙)
© 2022 gotamag