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プロレスから現代を生きる知恵を学ぶ――プチ鹿島『教養としてのプロレス』

09/10/2014

 

読者のみなさんのうち、プロレスファンはどの程度いるだろうか?

また、「プロレス」にどんな印象を抱いているだろうか?

 

今年8月、プロレスから現代社会を読み解こうと試みる一冊の書籍が刊行された。

オフィス北野所属のお笑い芸人・プチ鹿島氏による『教養としてのプロレス』(双葉社)である。

 

本書はプロレスファンに向けた「プロレス本」とは一線を画する。

プロレスを観戦することで培われるモノの見方や解釈が、人生を歩む上で役立つことを説いた教養書だ。

 

プロレスファンであれば、知らず知らずのうちにここで紹介される知恵を身につけ、「プロレス脳」を開花させているのではないだろうか。

本書はむしろ、プロレスを知らない・興味が無い人に向けて書かれている。

今回はそんな本書に込められたエッセンスをいくつかご紹介しよう。

 

プロレスに興味のない読者諸君!

ナメてかかるとマットに沈むぞ!!

 

 

「あれって八百長でしょ?」という思考停止

 

プロレス好きを公言すると必ずといっていいほど言われる「プロレスって台本があるんでしょ?」「あれは真剣勝負じゃないんでしょ?八百長でしょ?」といったフレーズ。

昭和のプロレスファンはそういった言葉の数々を浴びせられ、しまいには「自分が好きになったものはインチキなのか」という自問自答が続いた哀しい人種であった、と著者は振り返る。

 

しかし、誰になんと言われようと「好きなものは好き」だからしょうがない。

自身がプロレス好きであることを隠しながらも、大好きなプロレスを見続ける日々。

そんな中、著者は「ある事実」に気づく。

 

それは、プロレスは「半信半疑」の状態で見ているときにこそ、魅力的に見えるというものであった。

 

「あれって八百長でしょ?」といった言葉はおろか、「いや、あれは真剣勝負なんだ!」といったような純粋さや、「プロレスはショーとして割りきって見るべきなんだよ」といった達観した意見をも著者は一蹴する。

 

そういった極端なモノの見方ではなく、目の前で起こっている事実に対して「いったいどうなっているんだ」という「半信半疑」で見てみる。肯定も否定もしない「半信半疑」という態度。これこそが最もワクワクした気持ちにさせられるという。

 

「あれって八百長でしょ?」といった意見は思考停止で、どちらでもない状態でこそ想像力が掻き立てられ、より深くプロレスを楽しむことができる。

もはや八百長かどうかという論争は低レベルな話なのだ。

 

そして著者はその「半信半疑」という態度は、日常におけるモノの見方・考え方においても有効だと語る。

 

疑うことなくすべて信じたらそれは「オカルト」(最終地点はカルト)に通じてしまうし、信じることをまったくしなくなったらそれは「ニヒリズム」(最終地点は価値と潤いのない世界)に通じてしまう。だから様々な角度からワクワクできる「半信半疑」でいいのだ。(p. 37)

 

「半信半疑」。それはモノの見方・考え方の幅を広げ、なおかつ決して両極端には振れないバランス感覚を持った、極めて知性的な態度であるように感じられる。

 

 

メディアリテラシーを学ぶ

 

第4章はなんとプロレスからメディアリテラシーを学ぶことができるという内容だ。

 

80年代後半から90年代にかけて、「活字プロレス」がかつてない盛り上がりを見せていたという。

『週刊ゴング』と『週刊プロレス』の二大プロレス誌の戦いである。

 

『週刊ゴング』では、試合の写真を中心としたレポートが主な内容であったのに対し、『週刊プロレス』では、「その試合をどう解釈するか、どういう意味があるのか」といった深読みの楽しさを提供したと著者は語る。

 

やがて読者は『週刊ゴング』で純粋に「情報を知りたい」という欲求を満たしながらも、それだけでなく、「何をどう語っているか知りたい」という欲求を『週刊プロレス』で満たしてきた。

 

これらのプロレス週刊誌が華やいだ90年代に、当時のプロレスファンたちは現代に通ずるメディアリテラシーを獲得してきたと著者は論ずる。

 

最近メディアリテラシーという言葉をよく耳にする。大量の情報の中から必要なものを収集し、分析・活用するという、言ってみれば読み比べ・聞き比べの大切さのことだ。/でもそんな大仰な言葉がなくとも、プロレスを見ていれば改めて意識する必要はない。見立てを楽しむ、読み解く、自分でも想像してみるという接し方をプロレス者は自然に会得していたのだから。語られるモノに対しての野次馬精神がある。(p. 92)

 

「同じ風景でも見る人によって違う」、その楽しみ方を、プロレスファンは『週刊ゴング』と『週刊プロレス』で学ぶことができていた。

彼らが「活字プロレス」と現場のプロレスで培った「想像力」は、ネットが登場し、情報があふれる現代においてこそ必要な能力だ。

そして彼らプロレスファンは「半信半疑」でモノを見るのだ。

 

本章ではその後、かつて熱狂的支持を集めた『週刊プロレス』の元編集長・ターザン山本の「天才アジテーター」としてのエピソード、そしてプロレスメディアとしての『東スポ』といったところに話は広がっていく。

 

最終的には、『週刊大衆』『日刊ゲンダイ』の活字プロレス的手法に話は及ぶ。

本章で発揮されるプチ鹿島氏独自のメディアに対するアプローチの仕方は痛快だ。

これもすべて、プロレスファンだからこそなせる技なのだろうか。恐るべし。

 

 

◎おわりに

 

今回は概要の紹介にとどまり、具体的な選手やエピソードなどが登場しなかったが、本書ではさまざまなレスラーや伝説のエピソードの数々が紹介されている。

 

また、ここで白状するが、私はプロレスにはまったく詳しくない。

先述したように、本書はプロレスファンに向けた「プロレス本」ではない。

私のような初心者でも非常に興味深く読むことができる。

少しでも気になった方は手にとっていただきたい。

 

『教養としてのプロレス』 Amazon商品ページ

 

 

(ライター・倉住亮多

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