hyoshi

「旅をしたい」というすべての人に薦める、『世界はフラットにもの悲しくて』

22/08/2014

 

 

一人旅をして「そろそろ家に帰ろうか」という時、なんだか憂鬱な気分にならないだろうか。
僕はそんな時、いつも思い出す言葉がある。

 

沢木耕太郎・著『深夜特急5』で、アジアからヨーロッパへ旅をする沢木が地中海の船の上で
シルクロードの旅を振り返った時の言葉だ。

この船のうえで僕が感じていたものは、安らかさではなく、不思議なことに深い喪失感だったのです。からだが空っぽになってしまったような虚しさが僕をとらえていました。
(中略)
それは「終わってしまった」ということでした。終わってしまったのです。(略)失ってしまったのです。自分の像を探しながら自分の存在を滅ぼしつくすという、至福の刻を持てる機会を、僕はついに失ってしまったのです。
(沢木耕太郎『深夜特急5』p.220~228)

 

旅先のある土地から去るということには、大切な機会の喪失を思わせる切なさがある。

 

 

 

そんなことを思い返したのは、藤原章生さんの著書『世界はフラットにもの悲しくて ―特派員ノート1992 – 2014』(テン・ブックス)を読んだからだ。

 

 

本書は、毎日新聞の特派員として世界のあらゆる国を歩いてきた著者が綴ったエッセイ集だ。

特派員経験のある新聞記者が書いた本というとルポルタージュを思い浮かべるかもしれないが、

本書はいわゆるルポとは趣がかなり違う。

 

そして本書を読んでいると自分も「旅」をしているような気分にさせられるのだ。

なぜだろうか。

 

 

 

今回の記事では、本書を紹介しながら、「旅」について考えてみたい。

 

 

 

 

 

広大な砂漠にある、「砂粒」へのまなざし

 

私の言う「フラット」はネット環境が国境を壊す、というより、自分の頭の中にあったさまざまな境界、カテゴリー、自分の中にある無数の「世界」という枠が消えることを指す。
(中略)
枠の中には、数十年で生を閉じる幾多の個人が、特段その枠とは関係なく、個別にひしめいている。そんな砂粒のようにもの悲しい、小さな生を、その人の国籍や地位、所属、経歴にとらわれず私は見たかった。

(本書p.7~8)

 

著者は本書のなかで、中南米や中東、アフリカなどで出会った人々を取り上げる。
「死生観」「神」「アイデンティティー」「老い」「男」「女」など様々なテーマで、
「小さな生」との出会いや交流を語る。45の話からなり、ひとつひとつに写真が添えられる。

 

その書き方は、ルポの形式とはかなり異なる。
端的に言えば、著者は自身の内面にある感情の変化や感覚の動きを文章に隠そうとしない、というか、
むしろそれを前面に出しているのだ。

一般的に内容にも文章にも一定の客観性を持たせるルポの形式との違いはそこにある。

 

 

2つ、本書にある話を紹介しよう。

 

 

 

ハイチにある「アフリカ的なもの」

 

ハイチ

ハイチ

 

ハイチを訪れた時の話(Scene16)では、著者はいきなり
「ハイチの人々の信心深さはアフリカ的なものがある」と切り出す。

「おや、『アフリカ』という枠にとらわれているのでは?」とこちらが思うと、
まるで著者自身も読者の一人であるかのように、立ち止まって考える。

 

「ここでいう『アフリカ的』とは何だろう」と。

 

著者は「超常的な現象を信じ込んでいる」ことを「アフリカ的」という。
「それを一言で『アフリカ的』と呼ぶのは、たぶん私に先入観があるせいだろう」。
信仰はアフリカだけのものではないと断りながら、著者は
「アフリカは、こうした(超常現象の)分野で最も進んでいるという思い込みが私にはある」
と率直に認める。

 

 

この話ではマックスというハイチの「がんの“専門医”」が出てくる。
彼は三十代までアメリカの大学で化学を教えていたが、祖父が死んでからはハイチに戻った。
ブードゥー教という精霊信仰の神官になり、同時に“気”を使った治療法を学んだという。

 

著者は、超常現象の世界に入り込んだマックスのことを「アフリカ的」なものと重ね合わせ、
そのなかで「アフリカ的」とは何かと自問し、自分の先入観に思いを巡らせているのだ。

 

 

 

 

ペルーで見た顔と、かつての日本人の顔

 

アフリカ

 

ペルーで、亡くなった日系一世の知人の葬式に行った話がある(Scene33)。

 

葬式で著者は、同じく葬式に参加していた日系二世の男性の顔、
「日照りの夏や不作の秋を黙々とやりすごし、苦悩だけを自分の胸に
しまいこんできたようなその厳しい顔」をみて、
「深い懐かしさ、あるいは、愛おしささえ感じた」という。

 

それは「どうしてなのか」と、また立ち止まって自問する。

 

もしかしたら、かつての日本人の顔、昭和三○年代まではまだ巷にあふれていた疲れた男たちの顔、それと同じだったのかもしれない。
(中略)
あの頃は、みな仕事に疲れていながらも、男たちは威厳のある顔をしていた。
男性の姿に、そんなかつての日本人の姿を重ねたのだろう。

(本書p.234)

 

偶然見かけた景色が過去の記憶を掘り起こす。
そうして、過去に見たものの魅力に改めて気付くこともある。

 

 

 

 

著者のふたつの「まなざし」

 

ルワンダの少年兵や、ハイチで銃を突きつけてきた男たち、コロンビアのホームレス、
イラクのクルド人の村の入り口で見た少女・・・。

 

そうした「砂粒のようにもの悲しい、小さな生」への著者のまなざしは、
あらゆる表面的なものをはぎ取られて剥き出しになったような、人の素直な部分を巧みに捉える。
そうしたまなざしがあるから、本書は、著者と人々との交流に読者の追体験を誘うのだろう。

 

 

しかし、ただ一方的に「見る」のではない。
著者は、人や景色と出会ったときの自身の心の微妙な動きに敏感に反応し、
「なぜ心が動いたのか」と自問する。

 

その思索を通して、自身の奥底にあった「記憶」、
あるいは今まで気付かなかった自分の「感覚」や「先入観」の存在に気付く。

そのとき著者は、「小さな生」に向けるまなざしを自分自身にも向けているようなのだ。

 

 

 

 

本書を読むことと、旅をすること

 

では改めて、なぜ本書を読んでいると自分も旅をしているような気になるのだろう。

 

 

実際、このように著者が特派員として(戦場を含む)世界各地をめぐっていることを「旅」とは表現しがたい。
それでも、ある土地で人や景色と出会うという点では共通している。

 

「旅をすること」もまた、単にそこにいる人々の営みを見ることではないのだ。
人や景色との偶然の出会いのなかで、日常では気づきえない自らの「感覚」や「先入観」を発見し、
また遠い昔の「記憶」と再会する。旅とはそういう機会に身をさらすことだ。

 

そう考えると、本書を読むことで得られる幾多もの「小さな生」との出会いの追体験が、
旅をしている感覚を抱かせているに違いないだろう。

 

 

でも、それだけではない。

 

 

著者が自身の内面にある「感覚」や「記憶」を丁寧に綴っているからこそ、
本書は「小さな生」のことを語りながら、著者自身を語るものにもなっている。

 

著者のまなざしを借りて「砂粒のようにもの悲しい、小さな生」の集合として「世界」を見つめたとき、
一方で読み手の僕らは、「小さな生」と出会うたびに明かされるひとつひとつの
「感覚」や「記憶」の集合として藤原章生さんその人を見ることができる。

 

老いの感覚、出会いと別れ、死を意識した経験、死体に触った経験、
特派員として「伝えること」の葛藤・・・。

そこには「世界」と同じだけの多様性を見出しうる一個人の内面がある。

 

 

その藤原さんとの出会いがあるから、この読書は「旅」によく似ていると思うのだ。

 

 

旅の偶然の出会いが「感覚」を発見させるように、
藤原さんのひとつひとつの自問や思索に触れることで発見される「感覚」が、
思い出される「記憶」がある。

きっとそれは、読む人の数だけあるのだろう。

 

 

 

実際に、僕が本書で藤原さんの自問や思索に触れて気付かされたのは、
藤原さんが出会った人々だけでなく藤原さんご自身も、そして読み手の僕自身も、
多くの出会いと別れを経験し、人の「死」に触れ、葛藤を感じながら、
このどうしようもない現実を生きているのだという単純な事実だった。

 

誰も例外ではない。誰もが現実の「どうしようもなさ」にさらされ、「もの悲しさ」を抱えて生きている。
そのことに気付いて初めて、僕らは自分ではない誰かを、あらゆる枠から解き放たれたフラットな存在として
見ることができるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

以上、本書の紹介とともに、「旅」について考えてみた。

 

 

ぜひ一度、本書を手に取って、
世界に無数にちらばる「砂粒」のような「小さな生」との出会いを追体験し、
また藤原さんとの出会いを体験してみてほしい。

 

それはきっと良い旅になる。

実際の一人旅のように、本書を読み終えるときに寂しさが残ったとしても。

 

 

 

 

(ライター:マチドリ)

 

 

著者から一言

 とても思索的な書評を、ありがとうございました。一篇一篇を書く際、読んだ人に私の感じ方や記憶を追体験してもらいたいといった意図は特にありませんでした。ただ、文字の流れるまま書いたというのが正直なところです。でも、このように「旅」について深い思索をめぐらしていただいたこと、とても嬉しく思います。

 

 

 

アイキャッチ画像・本文画像ともに『世界はフラットにもの悲しくて』本文より
©Akio Fujiwara

 

 

 

 

 

リファレンス

 

本書のamazonページ

 

 

 

Pocket