20/09/2014
「デザイン」というものは私にとって、今までまったく縁のないものでした。
棒人間すら人間らしく描けない私が関わってはいけない世界だと思っていたのですが、
大学院で映像や写真について勉強を始めて半年、
最近になってデザインは見た目だけを指すのではなく、
使いやすさ、機能性も指すということを知りました。
もしかして、思ったより私にも身近なものなのかも?!
新しい世界を覗いてみよう!ということで、
とりあえず図書館に行ってみました。
そこで見つけたのが小池岩太郎著『新版デザインの話』(1985,美術出版社)。
“新版”とありますが、約30年前に出版された本です。
古すぎて参考にならないかもと思いましたが、読んでみたところ、
「これって今でも同じ?!」というところがいくつもありました。
たとえば、以下の引用は街中の看板について批判している部分です。
際立ちたいから、赤に対するに青をもってし、負けじとばかり黄地に黒縞の幟を掲げたりするので、市や環境はたまったものではありません。全く「騒色」界隈というほかなく、これに侵されている私たちの感覚的麻痺や頭の疲れなどは、計り知れないものがありましょう。
―『新版デザインの話』(1985,美術出版社)p.17
これは今のネット広告等でも同じことが言えるのではないでしょうか…?
今回は、『新版デザインの話』をもとに、そもそもデザインって何なのか、
デザインの心についてド素人なりに考えてみました。
今まで「デザイン」というと、デザイナーが提供する
おしゃれさ、スタイリッシュさ、奇抜さを連想していました。
デザイナーの個性が炸裂した空間や商品というイメージで、
全面ガラス張りの建物や、不思議な形をしたビルなどがその典型です。
しかし、『新版デザインの話』では次のように書かれています。
デザインは、その場、その場の都合や、かっこよさだけを、問題にすればそれでよいというものではありません。時間的経過も含めて、考えなければならないのです。時間の経過は当然、状況の変化をもたらします。そういう状況の変化への対応を含めて考えられなければなりません。(中略)デザインは、空間的にも、時間的にも、前後の関係、左右への配慮の中で捉えなければなりません。
―小池岩太郎著『新版デザインの話』(1985,美術出版社)p.142
デザインとは、時間的、空間的な気づかいによって生まれるもの。
使う人や見る人にとって、常に、使いやすい、見やすいものを提供するという考え方は、
私がデザインに対して抱いていた「自己表現」というイメージからは遠いところにありました。
今まで、私がデザインという言葉で連想していたものは、
「デザイン」というより「アート」に近かったようです。
本当のデザインとは、誰にも気づかれず、自然と生活の中に溶け込んでいるものなのかもしれません。
水を飲んで渇きをいやしたい(願い)、その願いは適切か(確認)、コップを設計した(表示)、コップを作った(媒体表現)、水を入れて飲んだ(使用)、渇きがいえた(達成)。ここでわかることは、コップを作る指示をしたデザインは、コップをデザインしたのではなく、コップを通してのどの渇きをいやすことをデザインした、ということに当たることです。コップはあくまでのどの渇きをいやすための媒体に過ぎません。デザインが、その媒体であるコップ、先の例では花壇そのものを目的とするように目を奪われていると、肝心の願い達成の結果において狂いを生じるようなことも少なくありません。(中略)デザインは、願いと、願いの達成の結果を橋渡しするものですから、単に図示に終る段階まででなく、その全貌をよくよく見渡した中で、これを行わなければならないのです。
―小池岩太郎著『新版デザインの話』(1985,美術出版社)p.39
以前、収納用にきれいなかごの入れ物を買ったことがあるのですが、
しばらく掃除を怠ると網目に埃が溜まってしまいました。
網目の掃除はなかなか時間がかかります。
ただの箱にしておけば埃も溜まらなかったし、掃除も楽だったなーと少し後悔しました。
掃除好きの人にとって、あのかごは収納でありながらも部屋をきれいに見せる
という願いを達成する素敵なデザインであったのかもしれません。
しかし、面倒くさがりでこまめに掃除のできない人にとっては、
その願いを達成する障害となってしまうでしょう。
ある人にとっての成功のデザインは、別の人にとっては失敗のデザイン。
デザインは創造力だけでなく、見る人・使う人のことを考える想像力も必要とされる大変な作業のようです。
さて、ここで少し話が飛びますが、
前述した2点に関して、ネットの世界はどうでしょうか?
様々なサイトが乱立し、大量の情報が飛び交う中、
“気づかい”のあるサイト、“願い”をかけたサイトはどれぐらいあるのでしょうか。
無料で手軽に誰でもできるようになったことで、目的を深く考えずに作れるようになってしまいました。
時々、そんな心がそのまま表れてしまっているような、投げやりな広告やサイトを見かけます。
サイトを利用するということは、サイトを見ること。
誰に見てもらいたいのか、見ることで何を得てもらいたいのか…。
結局、ターゲット層は?制作する目的は?ということなのだと思いますが、
“気づかい”や“願い”と言われるとちょっと素敵に聞こえてきます。
また、「見られやすさ」と「見てもらいやすさ」は少し違うのではないでしょうか。
特に広告では、最初に引用した部分と同様で、
とりあえず多くの人の目を引きたいという目的で「見られやすさ」を追求し過ぎると、
周りへの気づかいはどこかへ行ってしまいます。
結果として、見る人を不快にしてしまっては「見てもらいやすさ」がなくなっていく。
だから、見てもらいたいと思う場所こそ、ちゃんと見てもらうにはどうしたら良いのか、
目を引いた一歩先について考えなくてはならないのです。
投げやりな広告やサイトを”気づかい”や”願い”のあるものにしていくにはどうしたら良いのか……
これから勉強して、また記事にできればと思います。
最後に、本の中で素敵だなあと思った一節をご紹介します。
小池さんが共感したという電気器具の工場主の言葉です。
「私は女性が好きです。だけど、男ひとりで何人の女性を愛せるでしょうか。それよりも、その愛を万人の女性に捧げたいのです。それで、この電気コンロやアイロンのよい製品を、一生懸命、作って、世の女性に送り出し、それによってたくさんの人がしあわせになっていただきたい。それが私の仕事を通しての愛の行為なのです。」-小池岩太郎著『新版デザインの話』p.171
使う人、見る人の夢や願いを想いながら試行錯誤したものを「デザイン」呼ぶとしたら…
デザイナーって何て夢のある仕事なんだ!
私は今までデザインを誤解していたんだな…と思いました。反省。
また、今回見てきたデザインの心は、最後にも触れたように、
ネット上のデザインにとっても、重要なのではないかと思いました。
最近、ネット上ではPV稼ぎのために作られたサイトの問題など、
見せ方の問題が多く発生しているようですが、
人に見せる、見てもらうという考え方がなくなっているのも原因の1つではないでしょうか。
(制作側では考えているのかもしれませんが、素人が見ているとそれが感じられないということです…)
これから私が何かをデザインするということはないのですが、
何かを作るときには、今回考えたデザインの心を忘れないようにしたいなあと思いました。
この本には、「デザイン」に限らず人生にも応用できそうな言葉がたくさん出てくるので、
気になった方はぜひ読んでみてください。
リファレンス
小池岩太郎著『新版デザインの話』(1985,美術出版社)
(ライター:シムラ)
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