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「中途半端」と思われてもいいじゃないか!等身大で頑張る女性を描いた映画『フランシス・ハ』の魅力

17/10/2014

 

※本記事は、映画『フランシス・ハ』の内容についての言及を含みます。まだご覧になっていないという方はご注意ください。

 

 

 

「今まで一番良かったと思う映画は?」と尋ねられたら、なんて答えるだろうか。

 

僕はこの問いにすぐに答えが思い浮かばないことが多い。
その時の自分に合った映画が、その時の自分にとっての良い映画になる。だから「今まで」と広い範囲で聞かれると、なかなか思いつかないのだ。

 

では「今、一番良いと思う映画は?」と尋ねられたら。
僕はノア・バームバック監督の『フランシス・ハ』(2012年/アメリカ)だと、すぐに答えよう。
この映画を、僕は人にめちゃくちゃ強くオススメしたい。というか、手のひらを返すようだが今までで一番良かったかもしれない。そのくらい良い映画だった。

 

今回の記事では、本作の魅力をひたすら紹介しよう。

 

 

『フランシス・ハ』あらすじ

 

 

舞台はニューヨーク・ブルックリン。27歳・見習いモデルダンサーのフランシス(グレダ・ガーウィグ)は、大親友のソフィー(ミッキー・サムナー)とルームシェアをして暮らしていた。そんなある日のこと、フランシスは付き合っていた彼氏に突然同棲を持ちかけられる。彼女は悩みながらもソフィーと離れられないとこれを拒否。彼氏とも別れてしまった。しかしその直後、今度はソフィーが別の人とルームシェアすることになり、同居は解消。フランシスは知り合いの男友達2人がシェアする家に転がり込んだが、ダンサーの仕事が上手くいかず家賃を払えなくなり、結局この家も出た。一度実家に帰って気持ちを落ち着けてからニューヨークに舞い戻るが、ここでも友人宅に居候するフランシス。どことなく気まずさが彼女の周囲の関係を覆うなか、今度は唐突にパリへ旅行。しかし旅行先でも特に何をするでもなく、借金がかさむばかり。旅行から戻ると、見習いダンサーとして所属していた団体の上司に「ダンサーとしては雇えない、事務の仕事をしないか」と告げられた。その頃、ソフィーは付き合っていた彼氏と婚約し、仕事の都合で日本に住むことに。周囲が仕事・プライベート共に落ち着いていくなか、フランシスは一人もがき焦りながら、それでも前向きに歩き出す…。

 

 

こうしてあらすじを読むだけでも、フランシスはとにかく不器用であること、しかもだらしがないことがお分かりいただけるのではないだろうか。

でも、そんな彼女の姿にすごく共感できるのだ。この共感はどこからくるのだろう。
2つの視点から考えてみたい。

 

 

「努力している」か「努力していない」か

 

 

フランシスは確かに相当だらけた人間なわけだが、それでもダンサーになりたいという夢を持っている。ときには夢を諦めまいと見栄を張ることもある。「事務仕事をしないか」と上司に薦められたとき、彼女は「他の団体でダンサーの仕事がある」とウソをついて断るのだ。

 

ただ、見栄を張ったままで終わるというわけでもない。

 

しばらく母校の大学でバイトをした後、結局彼女は上司に薦められた事務職で働く道を選んだ。それはきっと、ダンスの仕事を諦めたというわけでは無い。彼女なりにダンスとの関わり方を探り、その段階で判断した、1つの結果なのだろう。

 

そんな彼女は、「夢に向けて努力している」といえるだろうか。
目覚ましい結果は出せていないが、努力していないというわけではない。ダンス教室で子供たちにダンスを教えたり、ダンスを続ける方法を考えたりしている。ただ、十分とは言えないのかもしれない。中途半端なのだ。見る人が見れば、「結果を出せていない、努力が足りない」と言うかもしれない。

 

しかし、と思う。
おそらく、世の中の人は「努力している人」と「努力していない人」のどちらかには必ずしも分けられない。
多くの人が夢を目指して努力しながら、ときには怠けることもあり、妥協や諦めも必要かもしれないと焦りながら生きているのではないだろうか。そこには自分なりの努力の形があるのだ。「この人は努力が足りない」というのは、そう言う人自身の基準でもある。
まずは自分なりの努力から始めれば良い。そう思うと、なんだか気持ちが軽くなる気がする。

 

ようするに、一見すると中途半端に見える彼女のスタンスは、むしろ人それぞれの努力の形がある、という自己肯定につながるのだ。無理せず、自分なりの努力から始めればいいと思える。それがきっと本作への共感を誘う要素のひとつだ。

 

 

「レリゴー!」とは叫ばない

 

 

そんなことを考えていると、「ありのままで」と自己肯定を歌いまくるあの映画を思い出した。僕はあの映画も、あれはあれで好きで、劇場で2度も観た。
しかし、『フランシス・ハ』にはあの映画とは違った良さがある。

 

 

無理して頑張って、でも上手くいかない。仲間に助けられて、「素直な自分で良い」と気付かされる――。
「自己肯定」を感じさせる映画は、この手の典型的なストーリーを持っていると思うが、本作は、そこまでハッキリと「ありのままで良いんだ!」とは描かない。実はそれが本作の良さだ。

 

たとえば、車のなかで、運転席にいるソフィーの結婚相手と助手席のソフィーが喧嘩をしている場面がある。その後部座席に座っていたフランシスが、唐突に涙を流しているように見える。
・・・そう、涙を流しているように見えるだけなのだ。「あれ、今泣いてたよね…?」というくらい。
全体を通して、フランシスの悩みや心情が感情的・明示的に吐露されるような場面はあまりない。本作がモノクロ映画であるというのも、感情を静めるかのような、フラットで穏やかな雰囲気を漂わせる。だからなのか、「ありのままで」というのを押しつけるような強さが本作には無いのだ。

 

それでいて彼女がもがいている姿はよく伝わるのが、なんとも不思議だ。
おそらく本作は、主人公・フランシスの内面と鑑賞者の間に絶妙な距離感を保つことに成功している。露骨に心情が描かれないからこそ、受け入れやすい。そのメッセージの強制力の「弱さ」こそ本作の魅力であり、共感を誘う2つ目の要素だ。

 

 

中途半端だと思われても良い、もうひとつの理由

 

さて、ここまで、本作に共感できるのはなぜなのかを考えてきた。
だが、「中途半端だと思われてもいいじゃないか」と僕が思ったのには、実は本作の共感のしやすさの他にも理由がある。

それは、フランシスが語る話に感化させられたからだ。

 

フランシスが実家からニューヨークに戻ってきて友人宅に居候している時、知り合いの家で食事をするシーンがある。友人を頼りまくって、それゆえに何だか気まずさの漂うこの空間で、酔っ払ったのか、フランシスはすごく良いことを話す。

 

 

たとえば、広い部屋の中、大勢の人がいるようなパーティ会場の中でも、目が合い、気持ちが通じ合う。
そういう、特別に共有された「秘密の瞬間」がある相手がいるということこそ、恋愛なんじゃないか。愛なんじゃないか、と。

 

それはきっと恋愛に限らない。パーティ会場は人生にも置き換えることができるだろう。
お互い全く別の環境に身を置いて、それぞれが人生の荒波に揉まれているときでも、「目が合う」ように通じ合い、特別に共有された時間がある相手。そのひとこそ、僕たちにとって大切なひとなのだ。
 

 

「中途半端」と思われても良い。どんなに大変な時期にも自分の方を見てくれている人、自分が見たいと思う大切な人がいれば良い。そう思えるのだ。

 

 

 

 

映画は渋谷ユーロスペースなど全国27カ所の劇場で公開中・順次公開予定だ。

本記事では主にストーリーについて取り上げたが、デヴィット・ボウイ『モダン・ラブ』、ポール・マッカートニー、T-REXなど、使われている音楽もとても良い。一見以上の価値ありだ。

 

ぜひ劇場へ!

 

 

(ライター:マチドリ)
アイキャッチ画像出典:映画『フランシス・ハ』Facebook公式ページ

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