08/08/2014
※本記事は映画『2つ目の窓』の内容についての言及を含みます。まだ観ていないという方はご注意ください。
なにも考えずに全裸で青く澄んだ海にダイブしたくなる。
川瀨直美監督の『2つ目の窓』は、そんな映画だ。
舞台は鹿児島県・奄美大島。
離婚した母・岬(渡辺真起子)とともに東京からやってきた16歳の界人(村上虹郎)と、難病で死の床に伏す母・イサ(松田美由紀)をもつ同級生の杏子(吉永淳)の、初々しい愛と性が物語の柱だ。
一方の界人は岬が次々と変わる恋人の前で『女性』として振る舞う姿を目の当たりにして岬(あるいは「性」そのもの)に嫌悪感を抱き、他方の杏子はイサの「死」に直面しながら界人に「性」を求めるようになる。
そんなある日、界人は岬に対してその恋人についての不満を爆発させ、「淫乱だ」と罵る。その直後、島を襲う嵐のなかで岬の行方が分からなくなってしまう…。
本作の主題は「生」と「死」、そして「性」だ。
山羊を屠畜する島人、制服を着たまま海を泳ぐ杏子、全裸でともに海を泳ぐ界人と杏子――奄美の大自然とともに人々の営みが描かれるからこそ、「生」と「死」と「性」は互いにとても近しい存在だという単純な事実に気付かされる。
(出典:映画.com)
さて、僕が映画を観ていて考えていたのは、そうした主題の深みよりも映画のなかの「音」のことだった。
この映画、かなり「音」が気になる。
波が寄せては返す音、風が葉を揺らす音、鳥の鳴き声、山羊の血が落ちる音、吹き荒れる嵐の音。そういう自然の音から、人がものを食べて噛む音や冷蔵庫を開ける音のような生活の音まで聞こえる。というか、そんな些細な音が耳に残る。
「あれ、映画ってこんなに音を拾うっけ?」という気にさせられるのだ。
もしかしたら映画だからという以前に、奄美で生きること自体に「音」の豊かさを気付かせるものがあるのかもしれない。
耳を澄まさなくとも聞こえる遠くの波の音や、他の音に掻き消されない「食べる音」。
人々の暮らしは自然の静寂とともにある。
他方、嵐のなかで岬を探す場面での界人の叫び声は、暴風に掻き消され、とても届かない。
ときに荒れ狂う大自然を前に、人々は静まるしかない。
日常で聞こえる「音」というのは、僕ら人間と自然の関係性の現れなのかもしれない。
作中では、自然の音と生活の音のどちらか一方が強調されるのではなく、フラットな関係で扱われているようだ。
毎日新聞記事『シネマの週末・この1本 2つ目の窓 生と死の連環、河瀬節で』(8月1日東京夕刊)で、同紙記者の勝田友巳氏がこう書いている。
主役は人間を含めた奄美大島の自然である。冒頭の荒れる波。イサを見守るガジュマルの大樹、透き通った海。自然は背景ではなく、人間と同じ比重で前面にある。
主役は人だけでなく自然。それは「音」にも表れている。
あくまで、自然の音と生活の音は同列にあるのだ。
(出典:映画.com)
映画全体を通して印象に残るのが、波の音だ。波の音は、様々な場面で聞こえてくる。
杏子の父でサーファーの徹(杉本哲太)が、波に乗って自然と一体になることの快感を界人に語るシーンがある。どこからともなく始まった波は、最後にはとてつもなく大きなエネルギーを持つ。それを全身で受けた時、一瞬そのエネルギーが静寂になる、と。杏子はこれを「セックスみたい」と言う。
繰り返し聞こえてくる波音は、作中で描かれる「死」を包み込む。
波がセックス(あるいはセックスのエネルギー)を隠喩しているのだとすれば、波音は「死」と「生」の循環を媒介するものとしての「性」を表現しているようでもある。
そう考えると、「音」は映画の主題そのものに通じている。
(出典:映画.com)
さて、「音」といえば、もちろん音楽もある。
特に印象的なのは作中で歌われる島唄『行きゅんにゃ加那節』と、本作のテーマ曲である『STILL THE WATER』だ。
「行きゅんにゃ加那」は奄美の代表的な島唄で、別れの歌だ。
この歌詞が、なかなか泣かせる。
行ってしまうのですか愛しい人
私の事を忘れていってしまうんですか愛しい人
発とう発とうとして行きづらいのです
お母さん、お父さん
物思いして考えないでください
豆を取って、米を取って食べさせてあげますから
目が醒めて
夜中中目が醒めて
あなたの事を思って眠れません
鳴いている鳥は
立神の沖の方で鳴いている鳥は
私の愛しい人の生霊にちがいない
(出典:wikipedia「行きゅんにゃ加那」)
奄美の言葉で歌われており、その訳には微妙に違いがある。
映画で歌われていた箇所は、(僕の記憶が正しければ)以下のように訳されていた。
あなたはどうしても逝くの
私を忘れて逝くの?
あなたが逝ってしまったら私はどうすればいいの
それは心苦しいのです
やっぱり行ってしまうのね
どうしても遠い島に
行かなくてはなりません
Wikipediaによると、この島唄が「男女の別れ」を歌っているのか「生者と死者の別れ」を歌っているのか明らかでないというが、映画では明らかに後者で歌われている。
歌詞の「行く」あるいは「逝く」というのが、「島を出る」ことか「死ぬ」ことか、どちらなのかははっきりしない。
だが、島の人には島を離れることと一生の別れ(=死)が同じことであったのだろうと思わせる。
それほど「死」は身近な存在だったのではないか。
だとすれば、その歌詞もまた本作の主題と効果的に絡み合っていて、本作の舞台が奄美であった必然を思わせる。
(出典:映画.com)
『STILL THE WATER』は奄美大島在住のミュージシャン・ハシケン氏作曲だ。
曲名は本作の英題でもある。
この曲があまりに良いので、僕は映画を観た翌日に再び映画館に行ってサントラCDを買った(鑑賞当日は手持ちのお金が無かった)。
チェロの低音に乗ってピアノとバイオリンが奏でる優しくてもの悲しい旋律は、映画が描く美しく透き通った海や若者たちの純粋さとよく馴染み、その世界観を形づくる。
朝日新聞記事『(かごしま 会いたい)映画「2つ目の窓」の音楽担当・ハシケンさん』(2014年5月18日朝刊・鹿児島県版)によれば、ハシケン氏は「明快なメロディー」との注文を受け、ロケ地でガジュマルの木や海岸を観ながら練り上げたという。
ハシケン氏は奄美大島の第76代観光大使でもあり、出身は埼玉だが奄美との関係は深い。そのハシケン氏だからこそ、奄美の美しい風景と生きる人々の「生(性)」と「死」という、決して軽くはないテーマをやわらかく包み込む音楽を作ることができたのだろう。
以上、本作の「音」に注目して世界観を読み解いてみた。
あらゆる種類の「音」が映画の主題と結びついていて、それが本作の表現を豊かにしている。
耳を澄ます必要はない。ぜひ「音」の世界観を堪能しながら、本作を観てほしい。
『2つ目の窓』はテアトル新宿など、全国41カ所で公開中だ。
上映期間は劇場によって異なるので、詳しくは映画『2つ目の窓』公式ホームページまで。
(ライター:マチドリ アイキャッチイメージ出典:Asian Wiki )
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