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ドキュメンタリー映画としての『劇場版 テレクラキャノンボール2013』を語ろう

01/08/2014

※本記事は映画『劇場版 テレクラキャノンボール2013』の内容についての言及を含みます。まだ観ていないという方はご注意ください。

 

 

 

「劇場版 テレクラキャノンボール2013」(監督:カンパニー松尾)

Twitterでポレポレ東中野アカウント( @Pole2_theater )が、本作を観た人の絶賛ツイートを繰り返しリツイート(拡散)するものだから、僕はこの映画がとても気になっていた。観たら必ず記事にしようと思っていた。

 

2週間ほど前に観に行ったのだが、観た後になって、やっぱり記事にするのは止めようと思い直した。その理由は後で少し触れるが、今回、本作のことを考えていたらそれで頭がいっぱいになってしまい、他に記事にする内容を全く思いつかなかった。致し方なし、たった2週間で禁じ手を使うことになってしまった。

 

 

先にも断わったように、本記事には映画『劇場版 テレクラキャノンボール2013』の内容について言及する部分があるので、記事を読んでいただく際には、まだ観ていないという方は十分に注意してほしい。

ただし、本作を「笑える映画」たらしめるために決定的に重要な部分については言及を避けたので、そこは安心して頂きたい。

 

また、本記事はアダルトビデオについての言及も含む(含まざるをえない)。したがって、もしかしたら本記事をみて不快に思う方がいらっしゃるかもしれない(それがこの内容の記事を書くのを止めようと思った理由の1つだ)。ただ、できるだけそうなることの無いよう、慎重に記事を書いていくつもりだ。

 

 

ドキュメンタリー映画としての「テレクラキャノンボール」とは?

 

さて、本題に入る前に映画のあらすじをまとめておこう。

 

 

人気アダルトビデオシリーズ「テレクラキャノンボール」の劇場版。(中略)AV監督たちが、バイクや車で東京から札幌に向けたレースを繰り広げつつ、各地でゲットした素人女性の数を競い合う。(中略)優勝者へのご褒美として、AV女優の神谷まゆ、新山かえでが共演。不純なレースながらも、笑いあり、お色気ありのドラマチックな展開にグイグイと引き込まれる。

 

(出典:シネマトゥデイ 本作ページ「チェック」より抜粋引用)

 

 

要するに、これはアダルトビデオだ。何人の「素人女性」を「ゲット」できるか競い、勝者には「AV女優」の「ご褒美」がある。そういうエッチなゲームを追ったアダルトな映画なのだ。

倫理も節度も飛び越えて、男たちが勝負をする。ふだん真面目に性を語る自分が小さく見えるくらいに、とにかくぶっ飛んでいる。

 

 

ではなぜ「テレクラキャノンボール」はドキュメンタリー映画なのか。

 

それは、AV監督たちが勝負については本気で臨んでいるから、そしてAV女優とAV監督のリアルな関係が描かれているからだ。

 

AV監督たちの本気の度合いについてはぜひ本作をご覧になって感じていただきたい。それがこの映画を「笑える映画」にしているのだ。

 

 

本記事で問題にしたいのは、「AV女優とAV監督のリアルな関係」の方だ。

 

 

 

「アイドル」としてのAV女優

 

AV女優とAV監督の関係を考えるために必要な内容をざっとまとめておこう。

 

「ご褒美」とされたAV女優は神谷まゆ(2013年末に女優引退)と、新山かえで。実は二人とも、レースに参加しているAV監督の中に特別な想いを持つ監督がいた。当初は「応援している」程度だったのだが、レースを通して特別なものに変わっていく。

 

しかも、特に神谷まゆがそうなのだが、彼女はプラトニックな恋愛をしているようなのだ。

 

 

ここに僕は奇妙な反転をみた。

 

以下、少し話が込み入ってくるが、できるだけ順序立てて書いていくので、ぜひお付き合いいただきたい。

 

 

 

 

 

そもそも、AV女優というのは「アイドル」なのだ。

 

どういうことか。

さしあたり、「アイドル」を「不特定多数に『カワイイ/カッコイイ』と見なされる主体」かつ「不特定多数に良く見られようとする主体」としよう。

 

社会学者の鈴木涼美氏が著書『「AV女優」の社会学―なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』(青土社 2013年)で書いているように、彼女たちのAV女優になった動機(「自分の意志でやっている」というもの)は、AV女優の業務の一部として饒舌に語られるものだ。それは語られ続けることで、やがて彼女たちの中で(業務として語られる動機ではなく)本当の動機としての地位を築く。世間はそうした彼女たちの動機語りに「自分の意志でやっているのだからいいではないか」と安心し、歓迎する。

AV女優は、「世間」が「性の商品化」に対して感じる負い目をもアイドルとして和らげ、つまり「世間」の潜在的な要望に応えていくのであり、その点でこそアイドル的なのだ。

 

もっといえば、アダルトビデオのなかで繰り広げられる性行為だって「他人に見せる」ための行為であって、あくまでアイドルとして演じられている。

 

 

 

 

だからこそ、おそよアイドル的ではない「プラトニックな恋愛」と「AV女優」はどこまでも相容れないはずだった。

また同じ理由から、AV女優という存在は基本的に観る者にとっての決定的な「リアリティ」を消し去ってくれるものだといえよう。

例えば内容の「リアルさ」を売りにしたアダルトビデオでも、AV女優が演じているという時点で、どこかリアリティがなくなり、「演技だろう」と思える。それが観る人の根本的な「安心」(決定的にリアルではなく「演技」と思えるからこそ、例えばそれが不道徳な内容であっても、アダルトビデオを観ることができる、という安心)になる。

 

 

ところが、この映画にはその決定的な「リアリティ」があるのだ。

本来であればフォーカスされることがないであろうAV監督とAV女優の関係性が描かれ、相容れないがゆえに彼女たちをアイドル=AV女優たらしめていたはずの「プラトニックな恋愛」と「AV女優」が共存してしまっているからだ。

 

代わりに、逆に本来であればアダルトビデオでしか観ることの無いような特殊な性行為を、アダルトビデオで見たことも無いような素人と共にする。

 

 

AV女優のプラトニックな恋愛と、素人との特殊な(アダルトビデオ的)性行為。

 

この反転が示唆するのは、AV女優の非アイドル的な側面と、「アダルトビデオ」制作のリアルだ。以下で詳しく見ていこう。

 

 

 

 

AV女優の非アイドル的な側面

 

 

AV女優(もちろん男優にも同じことが言える)は、性行為においてもアイドルである分、テレビタレントのアイドルなどよりも遥かにアイドル的だ。

当たり前だが、普通僕らはテレビタレントが性行為の時にどういう人間であるかは知らないし知ることができない。したがって、テレビタレントは性行為においてアイドル的である必要は無い。

一方でAV女優は、性行為の時にどういう人間であるかが見られており、つまりテレビアイドルと比べれば「見られていない自分」の領域が狭まっている。だからAV女優はテレビタレントよりもアイドル的なのだ。

 

 

そしてこの映画は、言ってみれば、その高度にアイドル的存在であるAV女優の非アイドル的な側面を暴くのだ。

それを観て、愚かなことに、僕は「そうだったのか」と気付かされる。

AV女優にだってそういう側面があることは当たり前なのに、白状すれば、そのことに目を向けずに、むしろ目を向けなかったからこそ、僕はAV女優に絡む様々な議論(たとえばビデオを観ること自体が「性の商品化」に加担してしまっているという問題)を留保したままアダルトビデオに目を向けることができていた。

 

 

アダルトビデオは観るべきでない、と言いたいのではない。実際に僕はアダルトビデオを観ることの倫理問題については、正直どう応答すれば良いのか分からないでいる。(このこともまた、この内容を記事にはできないと考えた理由の1つだ。)ただ、そうした倫理問題を見て見ぬふりをしていた、そこに気付かされたのだ。

 

 

 

ちなみに、プラトニックな恋愛を見せてくれた神谷まゆは、この映画の収録の後に1本だけアダルトビデオを撮影し、引退している。その事実は、この映画のドキュメンタリーらしさ、あるいはその恋愛のプラトニックさを際立たせる。

 

 

 

 

「アダルトビデオ」制作のリアル

 

本作を見れば、単純に、アダルトビデオができるまでにこんな過程があるのかと驚かされる。

「テレクラ」や「出会い喫茶」で人と知り合い、アポイントを取り、行為をするまでの過程。

そしてそこには色んな人がいる・・・(この件はこれ以上の言及を避けたい)。

 

そんな過程をみていると、出演者にとって性行為とは何だろうと考えさせられる。

端的に、おそらくそれは「見せ物」なのだ。「生殖」なんて遥か彼方、「快楽」というのも少し的を外している感がある。「見せ物」というのが一番納得できるのだ。

 

 

もちろん、アダルトビデオは見せて売るのだから、そんなことは当たり前だ。

ただその制作過程を見ればこそ、その苦労を知り、演出される「快楽」よりも「見せ物」という側面に注意がひきつけられる。

 

 

 

まとめ

 

ここまで書いてきたように、本作は、高度にアイドル的存在であるAV女優の非アイドル的な側面を暴きながら、アダルトビデオの制作者たちがどういう思いで作品をつくっているのかを明快に描いている。

その二つのリアリティを描いているだけでも、本作はドキュメンタリーとして非常に優れた映画ではないかと思う。

 

そして重要なことは、映画が描く二つのリアリティは日常の「反転」なのではなく、それは当たり前のことだということだ。

AV女優にだってプラトニックな恋愛があるし、AV制作現場では当然僕らが認識している以上に多くの苦労が存在する。驚くにはあたらないことなのだ。

 

 

他方、そうしたリアリティを突きつけられて、アダルトビデオに写された人々と自分はどう関わっていくべきか、という問いが、もう留保の余地がないほど強くコチラに向けられている気がする。

 

 

 

本作はポレポレ東中野で8月1日(今日!)まで上映している。

また、8月16日の「東中野テレキャノ大会オールナイトSUMMER2014」では前回作品もあわせて上映されるとのこと。詳しくはポレポレ東中野ホームページまで。

 

(ライター:マチドリ)

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