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友人の自殺と向き合う映画監督の映画、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』

29/08/2014

 

※本記事は映画『わたしたちに許された特別な時間の終わり』の内容についての言及を含みます。
まだ本作をご覧になっていないという方はご注意ください。
 

 

 

 

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(2013年)は、
太田信吾監督の友人で、自殺をしてしまった増田壮太さんが
プロミュージシャンを目指した半生を追ったドキュメンタリー映画だ。

 

 

太田監督は、バンドコンテストで優勝するほどの実力を持っていた壮太の音楽活動を撮影し、
動画をYOUTUBEなどにアップするなど、彼の音楽活動を支えていた。

 

一度は上京したものの思うように音楽活動をできなかった壮太は、
後輩の冨永蔵人を誘って地元・埼玉県志木市で活動を続けることになった。
しかしその二人には、活動をしていくなかで次第に音楽へのスタンスの違いが現れる。
趣味として音楽活動を楽しみたい蔵人と、プロとしてクオリティを追求する壮太。
やがて蔵人は長野県内の村の旅館に就職し、そこで細々と音楽活動を続けることに。
壮太は地元での音楽活動を続けていた。しかしその壮太も、唐突に就職する。
自らの音楽活動に限界を感じ、就職せざるをえないという現実を突きつけられたようだ。

 

その後壮太は、自殺をしてしまう…。

 

 

壮太の音楽活動を撮影して映画をつくろうと、
太田監督は当初からそのプロセスを記録し続けていた。
その記録にフィクションを織り交ぜて映画にしたのが、本作なのだ。 

監督本人は、映画を制作することができるか、人の死をテーマにして良いか、と
悩んだという。しかし壮太の遺書にあった言葉が、この映画の完成に向けて
彼を突き動かした。「映画を完成させてね。できればハッピーエンドで」。

 

 

 

映画の構成の複雑さ

 

さてこの映画、かなり複雑な構造になっている。
強引に分類してみると、本作には少なくとも4つの層があるようだ。

 

(1) 壮太の生前に、壮太と蔵人の音楽活動を、太田が記録した映像
(2) 壮太の死後に、太田や蔵人が(1)の映像にナレーションの声を吹きこむなど、映画を制作する様子
(3) 死後の世界での壮太を描いたフィクションの世界
(4) 太田監督らが(3)を収録するなど、((1)~(3)を含めたおそらく全体の)映画制作進行中の様子

 

こうして内容を試しに分類してみるだけでも、
ひとつの物語の枠を飛び出てその物語自体を捉えた視点(メタ物語的な視点)が
重層的に張り巡らされていて、ややこしい。
さらに、これらが細かいパーツに分解され、時系列を無視してパッチワークのように
切り貼りされるのだ。

その複雑な構成はかなり混乱を誘うし、観ているにはそれなりの忍耐が必要だった。
ただそれでも、増田壮太、冨永蔵人、太田信吾、それぞれの人生と人間模様はしっかり伝わってくる。
そこに編集技術の巧みさを感じる。

 

 

自殺に対する、残された者たちの「感情」

 

本作の内容の多くは増田壮太の人生にスポットがあてられるのだが、
僕にとって印象的だったのは、
太田監督ら映画制作している時、突然ある女性の出演者がビルの屋上から衝動的に身を投げようとして、
それに対して太田監督らが「その自殺はファッションだ」と怒る場面だ。

 

太田監督らが彼女を責める一方で、彼女をかばうスタッフもいる。両者に亀裂が生じる。
そのすぐ後、太田監督らは酒をあおって取り乱し、仲間に暴力をふるう。

 

別の場面では、太田監督自身が友人の自殺に対して罪悪感を抱いているところが描かれていた。
しかし、この出演者の自殺未遂に怒る場面から僕が感じたのは、
太田監督らの感情のなかには、もしかしたら
友人の自殺そのものに対するやり場のない「憤り」も隠れているのではないか、
ということだった。

 

いずれにしてもそこには、言葉では説明しきれないような、多様で複雑な感情の混乱があった。
太田監督らの「混乱」は、本作の構成の複雑さと効果的にシンクロしているようで、
本作の制作は、太田監督にとって友人の自殺と向き合うことそのものだったのだろうと思わせる。

 

 

映画から伝わるもの

 

なるほど、自殺は、少なくとも残された者たちにとって、
何かが解決することではありえない。何かの完結でもない。
それは解消しようのない「しこり」のように、
いつまでも、残された者の心に留め置かれるものなのかもしれない。

 

 

しかし本作は、それを明確な絶対悪として描くのではない。


重要なのは、本作が、自殺が起きた「その後」に残された者たちだけではなく、
自殺した壮太本人の「その後」の姿、そして「その前」の壮太や友人たちの姿にもスポットをあてているということだ。
彼らの「その前」と「その後」の感情や葛藤が、作中の端々に散りばめられているのだ。
だからなのか、「自殺=絶対悪」と短絡させない「ひっかかり」のようなものが、そこにはある。

 

そして、ひとつの明確なメッセージを提示するというより、あとは観ている人に委ねる。
本作の端々に映りこむ人々の感情や葛藤が、
自殺を、ひいては人の「生」と「死」を考えるきっかけになるのだ。
それだけでも、本作は観る価値のある映画だ。

 

 

だから、映画全体の複雑な構成や暴力シーンには相応の忍耐がいるとはいえ、
無理にその構造を解釈しようと考えすぎる必要はないだろう。
ただ映画の中でさらされる人々の感情や葛藤を、素直に受け取ればいいのだと思う。

 

 

 

 

 

作中とエンディングには増田壮太が実際に歌っている歌が使われている。
『僕らはシークレット』は、その「生」と「死」という重たい主題を優しく、そして切なく包み込む名曲だ。
こちらもぜひ聴いてみてほしい。

 

 

映画はポレポレ東中野で9月19日まで上映中。
全国5カ所でも公開予定だ。詳しくはホームページにて。

 

 

 

 

(ライター:マチドリ)
アイキャッチイメージ出典:『わたしたちに許された特別な時間の終わり』公式ホームページ

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