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「良さ」とは

24/11/2014

 

「良さ」とは。

このタイトルを掲げた時点で、本記事が主観的な自分語りのクソ記事になることは決まっていた。

 

 

 

僕は、自分の価値観に自信がない。例えば画廊で絵を見るとき、僕はその絵の解説や画家の名前ばかりに目がいってしまう。絵そのものから受ける自分の印象は、信用ならない雑感として隅に追いやられる。

 

しかし、何かを「良い」と思う気持ちは、本来徹底的に主観的なものであるはずだ。

それを僕はいつの間にか、誰かのレビューや世間の評価を参照することで、物事の価値を判断するようになってしまった。

いつからだろう。自分が見ている世界よりも、見えていない世界のほうが広いことを知ってしまったときからのような気がする。こだわりが、自分を狭い世界に閉じ込める鎖のように感じられたのは。

 

 

ときどき映画や音楽などの良い作品と出会うと、gotamagで作品のレビューを書きたいと思うのだけれど、自分の気持ちを伝えられる言葉が見つからない。

だから僕は、その作品がつくられた時代背景だったり、監督のインタビュー内容だったり、誰かのレビューを参照しながら、誰かに共有できる客観的な「批評」という形でその作品の「良さ」を伝えようとしてしまう。

 

でも僕が本当に伝えたいのは、実は誰とも共有できるはずのない、言葉にすることもできない、徹底的に主観的で本能的な感情なのだ。しかし、それを伝える語彙も文章力もないから、ついつい作品の「コンテクスト」や「意味」に頼ってしまう。

 

 

 

あぁ、僕は貧しいなあと思う。

 

でもこのような貧しさは、あらゆる感情をシェアしようとするSNS時代の消費者の宿命なのではないか、と時代のせいにしたりもする。

自分が感じた「良さ」を言葉にする努力を怠り、どこかで聞いたような言葉を借りて安易に「良さ」を共有しようとする。

自戒を込めて、もっと言葉を探す努力をしなければならないな、と思う。

 

 

 

「良さ」と「善さ」の違い

 

 

散文的なエッセイのついでに、ひとつSNS時代の「良さ語り」について苦言を呈しておこう。

 

 

僕は、倫理的な「善さ」と、芸術としての「良さ」を切り離して考えるべきだと思う。

 

それを思い知らされたのは、宮﨑駿監督の映画『風立ちぬ』を観たときだった。風立ちぬを観たあと、感動のあまり映画館前の生け垣に座ってしばらく茫然自失としたのを覚えている。

 

この映画の主人公は、天才の飛行機技師だ。その才能を発揮して殺戮兵器である戦闘機の設計に明け暮れ、結核になった妻の傍らでも遠慮せず喫煙するような人間である。

僕の記憶では、この映画は戦争に賛美的だと言われたり、喫煙を助長すると言われたりという批判があった。

 

僕は、それらの批判に対してある程度頷ける部分があると思いつつ、それでもこれらの批判が作品の魅力を損ねることはできないと思った。

 

少なくとも芸術という領域は、既存の倫理観に左右されてはいけないように思う。当然、倫理的な批判が作品そのものの価値を否定することもあり得る。しかしそれは、あくまで「それまでの作品だった」ということでしかない。

 

 

むしろ、そんな倫理観すら吹き飛ばしてくれるような、逸脱した感性の作品にこそ、僕は出会いたい。

 

百田尚樹氏の小説『永遠の0』も、特攻隊に賛美的であるなど、風立ちぬと同様の批判があった。

だが、死にゆく夫と妻の物語が、多くの人びとに感動を与えたこともまた、疑いようがない事実である。

 

 

このような倫理的「善さ」についての言説は、SNSで非常にシェアされやすいように思う。

ときには作品制作の感動の裏話として。ときには男女差別を助長するという批判として。

 

こういう現象は、作品の良し悪しという主観的な評価よりも、作品の善悪という倫理観を批評するほうが、よほど共有しやすく、何かを語った気になれるからではないだろうか。

 

先日亡くなった高倉健さんについての報道では、「俳優として」の高倉健さんにはほとんど触れられず、「いい人だった」という人間性ばかりが語られる。

彼が極悪人だったら、遺作の映画『あなたへ』に対する世間の見る目が変わっただろうか。僕はそうはならない。そうありたくはない。

 

 

最後まで散文的になってしまったが、善悪という基準では判断できない人間の生の部分を描きだすことこそ、芸術の魅力なのではないだろうか。

 

 

(ライター:加川)

(アイキャッチ出典:http://torellana649.wordpress.com/2013/02/21/b7/)

 

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