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『弱いつながり』をデモ論として読む(五野井郁夫×東浩紀「デモの現在と未来ーーそれでも社会は変わるのか」)

09/09/2014

 

 9月5日、哲学者・作家の東浩紀氏と政治学者の五野井郁夫氏による対談イベント

デモの現在と未来ーーそれでも社会は変わるのか」が、ゲンロンカフェ(五反田)で開催された。

 

 五野井氏は、2012年の著書『「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義』(NHKブックス)で

日本の戦後史をデモという視点から分析し、3.11後の「デモができるようになった社会」における

民主主義の可能性を説いている(余談だが、筆者は学部時代に五野井氏の講義を受けて国際政治学のゼミに進んだところが大きい)

一方、東氏は事前の収録でも「デモは社会を変えないと思う」とバッサリ。

デモの意義は認めつつも、デモの有効性には懐疑的だった。

 

 結論から言うと、東氏は対談の最後に「デモは社会を変えた」と考えを改めた。

そこに至るまでの議論は、東氏の近著『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎)と

共通する部分も多い。

 

 本稿は、『弱いつながり』をデモ論として読む試みである。

イベントに参加した一読者の感想の域を出るものではないが、お付き合いいただければ幸いである。

 

 

 

デモと「観光客」

 

 デモ論として『弱いつながり』を読む前に、本書に登場する「観光客」という

概念について整理しておこう。

 

 東氏いわく、世のなかには二つの生き方があるという。

ずっと同じ場所にとどまり続けて、いまある人間関係を大切にする「村人」タイプの生き方と、

ずっと放浪を続けて、どんどん環境を切り開いていく「旅人」タイプの生き方だ。

ところが、前者の生き方ではその場の環境に取り込まれてしまうし、

後者はサステイナブルな生き方ではない。

そこで、第三の生き方として「観光客」タイプが登場する。

 

 一般に、「観光客」は他の国や地方をただ見物して通り過ぎていくだけの、

「軽薄」で「無責任」な存在だ。

しかし、「軽薄」だからこそ普段は決して出会わないようなひとに出会えるし、

「無責任」だからこそ広がる世界がある、と東氏は指摘する。

 

 『弱いつながり』では、村人であることを忘れずに、自分の世界を拡げるノイズとして

旅を利用する「観光客」としての生き方を勧めている。

「村人」的な生き方と「旅人」的な生き方のあいだを往復する「観光客」は、

なるほど、市民社会の一員がデモに参加して政治の場に赴く構図に似ている。

 

 

√ デモの参加者は『弱いつながり』に登場する「観光客」である。

 

 

 

「デモは社会を変えた」

 

 さて、当初は「反原発デモが日本を変える」と呼びかけた批評家の柄谷行人に対しても

懐疑的だった東氏が、なぜ「デモは社会を変えた」と考えるに至ったのか。

正確には、「官邸前デモは政治は変えなかったけど社会は変えた」という結論に至ったのはなぜか。

 

 当日の対談の場には、官邸前デモを主催する「首都圏反原発連合」発起人のひとりであり、

「ヘイトスピーチ」の問題でも話題になった元「レイシストをしばき隊」(現C.R.A.C)の

野間易通氏の姿もあった。

イベントは21時に終了予定だったが、23時過ぎまで延長し、最後の数時間は

野間氏と二人の登壇者によるクロストークとなっていた。

 

 東氏が「すごく納得させられた!わかる!」と共感を示した野間氏の話は、

東氏自身が以下のようにツイッターでまとめている。

 

 

 空気を読む日本人は、目の前で不正義が行なわれていてもなかなか手を差し伸べられないし、

声を上げられない。

それが、官邸前デモで目の前の不正義に対して手を差し伸べるということができるようになった。

これは「目の前で理不尽なことが起きたら怒る」というリベラリズムの思想の延長線上にあるし、

『弱いつながり』の中にも登場するルソーの「憐れみ」という概念にもつながっているだろう。

 

   ルソーの言う「憐れみ」は、人権とか正義とかいった理念とは関係のないものです。

   むしろとても動物的で反射的なもの。

   目のまえでひとが血を流していたら思わず手を差し伸べてしまう、

   きわめて日常的な感覚です。

                             ー『弱いつながり』p.108

 

 

√ 硬直した日本社会にあって、人々が目の前の不正義に対して「憐れみ」を持って弱く繋がり、

 行動を起こせるようになった。その点において、「デモは社会を変えた」といえる。

 

 

 

デモが「アンチ」にならないために

 

 たしかに、日本は「デモができる社会」になったのかもしれない。

民主主義を掲げる国家としては、デモが起きることはきわめて健全だし、

米国の政治学者シドニー・タローの「社会運動論」によれば、

デモが社会に根付くかどうかが民主主義の指標になる。

しかし、デモはつねに単なる「アンチ」に成り下がってしまう危険性を孕んでいる。

 

 官邸前デモは、先の選挙で全政党が脱原発政策を打ち出したことや、

自民党の某議員が「(デモがうるさくて)仕事にならない」と発言したことからも(注)

一定の影響力があり、政府も何らかの対応をしなければならない存在であると

考えていることが伺える。

 

 一方、東氏が運営する株式会社「ゲンロン」には根強いアンチがおり、基本的には無視しているのだが、

言動や行動が目に余るときは対応せざるをえないのだという。

会社と市民団体を同列に比較できるのかという問題はあるが、こうした「アンチ対応」と

デモに対する政府の対応の違いを説明するのは意外と難しいようだ。

 

 まずアンチ対応の方から見ると、「反応」されたアンチは「勝った!」と「勝利宣言」をするのだという。

これはデモにも同じことが言え、政府が「反応」したことに喜んでいるだけでは、単なるアンチと変わらない。

 

 デモがアンチにならないために大切な要素は3つある。

まず、「勝利宣言」をしないこと。

五野井氏の言葉を借りれば、「反応したぜ、ヒャッハー」とか「はい論破」と軽々しく言わないこと。

それで満足するのはアンチの文脈である。

次に、政府が言ったことに対して「本当ですね?」としっかり確認し、言質をとること。

これが単なるアンチとの大きな分かれ目になる。

そして、暴力性を持たないこと。

暴力は民主主義の否定に繋がり、規制の対象となってしまう。

 

 

√ 「勝利宣言」をしない、言質をとる、暴力性を持たない。

 この3つの原点を忘れなければ、デモは単なるアンチに成り下がらない。

 

 

 

デモは政治を変えるのか

 

 「官邸前デモは政治は変えなかったけど社会は変えた」。

では、政治を変えるためにはどうすればいいのだろうか?

政治を変えるためには、政府の審議会などに参加して政治の内部に入るしかないのだろうか?

 

 先にも登場したシドニー・タローは、デモの発生やその後の展開に影響を及ぼす政治的条件として

「政治的機械構造」という概念を紹介している。以下がその条件だ。

 

1.政策決定過程の公開性

2.政治的配置、とりわけ選挙における不安定性

3.有力な同盟者の存在

4.権力エリートの分裂

 

 この概念は1998年に登場したものであり、上の条件が現代社会にそのまま当てはまるとはいえないが、

デモが政治に入り込む余地が大きいほどデモは政治的な影響力をもつということがわかる点においては

有効であると考える。

 

 そう考えると、デモ参加者が「観光客」という立場で市民社会と政治の場との間を往復することによって

政治を動かす可能性はなきにしもあらず、と言えるのではないだろうか。

 

 

√ デモを成功させるには「観光客」の立場でいくのがいい。
 「どぶ板選挙」のような消耗戦に突入し、相手の反応に一喜一憂するようになってしまったとき、
 デモは影響力を失うだろう。

 

 

(ライター・アイキャッチ:カクノ)

 

 

【参考文献】

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』幻冬舎、2014年

五野井郁夫『「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義』NHKブックス、2012年

大畑裕嗣、成元哲、道場親信、樋口直人『社会運動の社会学』有斐閣選書、2004年

 

注:某議員について

 

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