「死ぬことと見つけたり」

時代劇を読むのはSFを読むのと似ている―隆慶一郎著「死ぬことと見つけたり」

13/10/2014

武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり

 

江戸時代に書かれた武士道の解説書「葉隠」の有名な一節である。

 

隆慶一郎著「死ぬことと見つけたり」は、葉隠の内容をベースに、佐賀鍋島藩崩壊の危機を救おうとする斎藤杢之助と牛島萬右衛門、中野求馬の三人の武士の生き様を描いた痛快な時代劇だ。浪人である杢之助と萬右衛門、藩に仕える求馬という立場の違う武士たちが、お家騒動や江戸幕府からの圧力などの問題を知力と体力を尽くして解決していく。脚本家としても活躍した隆慶一郎ならではの軽妙な台詞回し、ドラマティックな展開が、ページを繰る手を止めさせない。史実に沿った厳格な時代劇小説とは一線を画する面白さだ。

 

「死ぬことと見つけたり」とは、武士とは常に「死」を覚悟しておくべきである、という意味だ。鍋島藩の武士たちは、生きながらにして「死人」である。死を恐れない「死人」は当然いくさで活躍するだけでなく、切腹も覚悟で藩主に物申すことも厭わない。腹を据えて自らの信念を貫く武士たちの清々しい姿に、読者も血をたぎらさずにはいられない。

 

 

魅力的なキャラクター

 

本書の最大の魅力は主人公杢之助と萬右衛門、求馬のキャラクターだ。杢之助は寡黙で自由奔放、そして圧倒的な強さを持つ。まさに「武士道」の王道を行くような人間である。そしてその男に心底惚れ込んだ萬右衛門は、同じ浪人という身分ながら献身的なまでに杢之助に奉仕する。決して主従関係ではない両者の奇妙な仲は、「友情」と「尊敬」が入り混じった男社会独特のつながりを描き出している。この豪放磊落な二人の一方、求馬は藩に仕える身分のために、政治家としての采配と武士としての心意気の間で揺れ動きながらも、旧友である杢之助たちと協力していく。

 

この三人のキャラクターと関係性が、実に読者を惹きつける仕掛けになっている。

 

読者からすれば、杢之助はまさに「憧れの人」と映るだろう。武士が何人がかりでも適わないほど強く、頭も切れる。こんな人になりたい、せめてどこまでも着いていきたい、という思いは萬右衛門が代弁してくれる。一方で、杢之助はあまりにも「ヒーロー」として出来すぎている。いわば雲の上の存在だ。また、萬右衛門も杢之助と同様、自由奔放な浪人武士には変わりがない。こんな風に自由に生きたいが、平凡で常識に囚われた自分にはなれそうもない。そんな思いに折り合いをつけながらも、ここぞというところで覚悟を決めて活躍する求馬は、僕にとって自己投影しやすい最高の「代理人」だった。

 

ただ杢之助が大活躍する冒険時代劇であれば、読者は置いてきぼりを食らう。江戸時代の「武士道精神」を描いた本書が現代でも魅力的なのは、この性格の異なる三人の関係性のどれかに自己を投影できるからではないだろうか。

 

 

時代劇とSFは似ている

 

とはいえ、やはり「武士道精神」とは旧い社会の価値観だ。本書を読み始めた頃の感想は、「なぜそんなことで切腹するのか」「ここは逃げればいいではないか」というものだった。封建社会、家制度、面子、切腹、いくさ…どれを取っても、現代社会にはないものであり、登場人物の行動原理が理解できなかったのだ。そうすると登場人物の心情を推し量ることができず、作品に没入することができない。要するにリアリティが欠けていた。

 

これは、僕をいままで時代劇小説から遠ざけていた要因のひとつだったと思う。しかし、先述のように隆慶一郎の小説はとにかく読ませる。すると不思議なことに、だんだんと江戸時代の社会通念や武士道精神という彼らの行動原理が理解できるようになってくる。いつの間にか物語に没入し、武士として生きるしかない彼らの辛さまでもが身に染みて感じられるようになってくるのだ。

 

この体験は、SF小説を読むことと似ている。

時代劇とSFは、その物語を読む「私」がいる現代を挟んで時間軸としては正反対に位置する。しかし両者とも、現代とは異なる「常識」で動いている世界を描いていることに変わりはない。一方は封建制度が維持された世界であったり、あるいはロボットが恋人になる世界だったりする。

 

 

ズレが際立たせる普遍性

 

時代劇とSF小説ともに、「いまここ」とは異なる世界を描くことは共通している。読み始めは突き放されたような感覚だが、読み進めるうちに現代の社会とは「ズレ」た世界を読者に追体験させる。

 

SF小説や時代劇は、この「ズレ」のなかで人間の喜怒哀楽あふれる物語を描くことで、逆説的に普遍的な「人間性」の在り方を際立たせる。

 

例えば長谷敏司著「あなたのための物語」は、人工知能に感情や創造性を持たせようと腐心していた研究者が病に侵され、自分の死や肉体と向き合うことを通して人工知能の不可能性や生の本質に迫る作品だ。肉体を持たない人工知能と対比させることで、有限の肉体を持つ人間の「人間たるゆえん」を際立たせる。SF小説における典型的なプロットだが、永遠のテーマとも言える。

 

「死ぬことと見つけたり」でも、この「ズレ」が生んだドラマティックなシーンがある。物語の終盤、中野求馬が江戸にのぼる際、妻の愛に切腹用の白装束を渡してくれと頼む。愛は夫が死を覚悟していることを悟ったが、「男のすることに口出しをしてはいけない」という中野家の規則を守り、黙って従う。しかし、とうとう我慢できずに「お独りで死ぬおつもりですか」と口走ってしまう。最終的には求馬の並々ならぬ覚悟を知って、彼女も「大変。いそがなくちゃ」と江戸行きの支度をいそいそと手伝い始める。一見淡々としたやりとりだが、愛の「お独りで死ぬおつもりですか」という言葉は当時、少なくとも中野家にとっては離別を言い渡されても仕方のない言葉だった。それでもなにか一言かけずにはいられない愛の夫を思う気持ちを推し量ると、一転して緊張感を孕んだ場面に映る。これも、江戸時代における男尊女卑の世界を舞台にすることで、その社会通念や規則すら通用しない普遍的な「夫婦愛」を繊細に描き出した場面である。

 

 

おわりに

 

本書は、杢之助らが鍋島藩崩壊を企む老中松平信綱の弱みを握り追い詰めようとする場面で、作者死亡により急に幕を閉じる。以降は、作者が遺したメモをもとに編集部があらすじを書き足している。

 

まさに作者の隆慶一郎の「死ぬことと見つけたり」という作家としての心情が杢之助や求馬ら武士に乗り移り、終盤の鬼気迫る展開を書かせたのだと思う。

 

ところで、葉隠は戦後、「死ぬことと見つけたり」という言葉が太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時に使われたことから、軍国主義的書物という理由で一時禁書扱いされたという。しかし、常に死を覚悟して生きることと、ただ玉砕することは異なる。杢之助は決して犬死にをよしとしない。ただ勝ちいくさのために命を賭して挑むのみである。本書を読めばわかるが、杢之助、意外と死なないから。

 

確かに本書によって封建社会や男社会における武士道精神が美化されるきらいはある。しかしそこは、本記事で示したように現代社会との「ズレ」を大いに感じ、そのなかにも普遍性を見出す、という読み方をすればいいのではないだろうか。

 

 

リファレンス

 

隆慶一郎著「死ぬことと見つけたり」 

 

(ライター:カガワ)

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